比叡山坂本から延暦寺、大原三千院へ、紅葉見物の旅-④ 大原三千院 ― 2019-11-22
比叡山坂本から延暦寺、大原三千院へ、紅葉見物の旅-④
大原三千院
四条河原町から京都バス大原行き(17系統)に乗って約50分、終点の大原駅に到着。
ここから歩いて約10分です。
途中には京都名物のしば漬け屋さんや自然豊かな景色がつづきます。
参道入口。 右に、 「三千院門跡(もんぜき)」
左に、「後鳥羽天皇 順徳天皇 御陵参道」 の碑
桜の馬場
御殿門
正式名称 三千院
通称名称 魚山三千院門跡
住所・所在地 京都市左京区大原来迎院町540
三千院の由来
三千院は延暦年間(782‐806)に伝教大師最澄が比叡山東塔南谷(とうとうみなみだに)の山梨の大木の下に一宇を構えたことに始まる。
その後、慈覚大師円仁に引き継がれ、平安後期以降、皇子皇族が住持する宮門跡となった。
明治4年、法親王還俗にともない、梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇御宸筆の勅額により、三千院と称されるようになる。
明治維新後、現在の地大原に移り「三千院」として1200年の歴史をつないでいる。
三千院HPより
通称名称 魚山三千院門跡
住所・所在地 京都市左京区大原来迎院町540
三千院の由来
三千院は延暦年間(782‐806)に伝教大師最澄が比叡山東塔南谷(とうとうみなみだに)の山梨の大木の下に一宇を構えたことに始まる。
その後、慈覚大師円仁に引き継がれ、平安後期以降、皇子皇族が住持する宮門跡となった。
明治4年、法親王還俗にともない、梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇御宸筆の勅額により、三千院と称されるようになる。
明治維新後、現在の地大原に移り「三千院」として1200年の歴史をつないでいる。
三千院HPより
客殿
受け付けを済まし、靴を脱いでビニール袋に入れて手で持ち、案内の順路に沿って拝観します。
客殿より望む聚碧園
宸殿より望む有清園
宸殿と有清園
大和座りの両脇侍の阿弥陀三尊像(国宝)が安置されている、往生極楽院。
立札に「お堂に入ってお参りください。」とありましたのでお堂の中へ。
立札に「お堂に入ってお参りください。」とありましたのでお堂の中へ。
想像よりも大きい三尊像をじっくり拝観する。
特別解説・・ 話し好きの僧侶さんの解説が聞けます。
観音、勢至両菩薩像の倭坐(やまとすわり)の説明。懐中電灯を持ち出し、天井を照らし出してくれ、舟底天井と言って船の底のようにな形になっていて、そこに菩薩がたくさん描かれています。復元したものが展示室にあるので、帰りにご覧ください。と教えて頂いた。
特別解説・・ 話し好きの僧侶さんの解説が聞けます。
観音、勢至両菩薩像の倭坐(やまとすわり)の説明。懐中電灯を持ち出し、天井を照らし出してくれ、舟底天井と言って船の底のようにな形になっていて、そこに菩薩がたくさん描かれています。復元したものが展示室にあるので、帰りにご覧ください。と教えて頂いた。
往生極楽院と呼ばれる本堂、往生極楽院阿弥陀堂。
往生極楽院の裏手に弁財天池 ・ 細波の滝
わらべ地蔵さま
可愛いお地蔵さん 癒されます
琵琶を奏でる弁財天さま、金色不動堂へ向かう山道の途中です。
金色不動堂
金色不動明王像 御開扉
お不動様の手につながっている五色の「善の綱」を手にはさんで合掌します。
お不動様の手につながっている五色の「善の綱」を手にはさんで合掌します。
観音堂
杉の木立ちに囲まれる往生極楽院
朱雀門
最後に位置する円融蔵
客殿の白壁
三千院参道入口左に、「後鳥羽天皇 順徳天皇 御陵参道」の碑がありました。
三千院を出て、津川にかかる橋を渡り、右手に宮内庁の看板を発見。
宮内庁の看板
後鳥羽天皇 / 順徳天皇 大原陵 拝所
承久3年(1221年)、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は隠岐国へ、順徳上皇は佐渡国へ流されます。
長年都への帰還を願っていた後鳥羽上皇でしたが願いはかなわず、延応元年(1239年)、隠岐国で崩御。遺骨は分骨されて都に戻ります。仁治2年(1241年)、尊快法親王(後鳥羽天皇皇子)は後鳥羽上皇の離宮・水無瀬宮の廃材を用いて大原法華堂を建立。父後鳥羽法皇の遺骨を安置しました。
長年都への帰還を願っていた後鳥羽上皇でしたが願いはかなわず、延応元年(1239年)、隠岐国で崩御。遺骨は分骨されて都に戻ります。仁治2年(1241年)、尊快法親王(後鳥羽天皇皇子)は後鳥羽上皇の離宮・水無瀬宮の廃材を用いて大原法華堂を建立。父後鳥羽法皇の遺骨を安置しました。
あまざけを頂きました。
大原らしい田園風景
三千院HPより
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