彦根 散策!(格安フェリーの旅)-- 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 ― 2024-11-08
歴史小説を愛読する私にとって、戦国時代の変遷を舞台とする琵琶湖周辺は行きたいところがいっぱいです。
数年前に、大津から京都南禅寺まで疎水沿いを歩いて散策しました。
今年の5月は、近江八幡、安土城を散策しました。
今回は、彦根駅から 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 彦根城 夢京橋キャッスルロードを散策です。
数年前に、大津から京都南禅寺まで疎水沿いを歩いて散策しました。
今年の5月は、近江八幡、安土城を散策しました。
今回は、彦根駅から 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 彦根城 夢京橋キャッスルロードを散策です。
旅の準備で、佐和山城跡までの徒歩を検索するとJR東海道線の西側・東側2つのルートが出てきました。
みぎのルートを選択し、彦根駅東口から北東へ
彦根駅東口から北東へ進みR8付近でGoogleMapで検索するとなんと図左のルートが表示されます。一瞬戸惑いましたが、決めたルートを地図観ながら探しました。
R8の交差点に案内板がありました。
横断歩道を渡り、北へ。近江鉄道の踏切近くまで進んで散歩中の方に尋ねました。
ガード下に、こんな案内板を見つけました。
車の先を左に入って川沿いに右に進め!みたいです。(下図参照)
河川の散歩道みたいな処をひたすらまっすぐ進むと清凉寺に着きました。
【 清凉寺 】
井伊家の菩提寺として、また父井伊直政の墓所として直孝が開基した曹洞宗永平寺派の寺院。
本堂裏の高台には歴代藩主の宝篋印塔がある。
寺地が石田三成の名家老といわれた島左近の屋敷跡で、関ケ原の戦いの戦没者の供養も兼ねているそうです。
本堂裏の高台には歴代藩主の宝篋印塔がある。
寺地が石田三成の名家老といわれた島左近の屋敷跡で、関ケ原の戦いの戦没者の供養も兼ねているそうです。
本堂裏の高台には歴代藩主の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
野生の猿がたくさん遊んでいました。
【 龍潭寺 】
井伊氏の始祖、藤原共保(ともやす)以来の井伊家の菩提寺で、奈良時代行基によって遠江国(現静岡県)井伊谷に開基された、臨済宗妙心寺派の寺院です。
井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天(こうてん)が佐和山(232.5m)山麓に移築しました。
井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天(こうてん)が佐和山(232.5m)山麓に移築しました。
石田三成の銅像
龍潭寺 山門
山門の左入り口の柱に小さな案内が・・・
龍潭寺玄関
七福神
観音堂
佐和山城跡をめざす、ハイキングコースのスタートです
入口にあった、ハイキングコースの案内板
佐和山城
関ヶ原の合戦(1600年)で、西軍を率いた石田三成の居城。
関ヶ原の合戦(1600年)で、西軍を率いた石田三成の居城。
信長・秀吉の時代にも、佐和山城は近江の要衝を守る城として重視されました。江北と江南の「境目の城」として城が造られ、浅井長政時代には磯野員昌が、織田信長時代には丹羽長秀が、羽柴秀吉時代には堀尾吉春、石田三成といった重臣が城主となっています。1600(慶長5)年の関ケ原合戦後は、徳川四天王の一人、井伊直政が城主となりますが、1604(慶長9)年の彦根城着工に伴い、佐和山城は廃城となります。
関ヶ原の合戦で敗れ“大一大万大吉”の理想まであと一歩届きませんでした。代わってこの地の領主となった井伊家は、佐和山城を破城しました。この際、石垣や建材の一部は彦根城へと運ばれ、築城の材料として使用されました。
切通し -- 古絵図に「かもう坂通り往還」と記されている切通しです。
東山道と琵琶湖岸の松原をつなぐ道として、旅人や牛馬が往来したという。
東山道と琵琶湖岸の松原をつなぐ道として、旅人や牛馬が往来したという。
西の丸 塩硝櫓跡
やっと本丸跡がみえてきました。
本丸跡
左に荒神山、中央に彦根城、奥は琵琶湖が望める。
彦根城の天守が望める。
佐和山 三角点 標高233m
隅石垣
2段に積まれた本丸跡の石垣
南側の登口の方へ急坂を下ると千貫井戸の看板があります。
大雨などのの影響か樹々が倒れ井戸の屋根や囲いはすっかり潰れてしまっています。
千貫井戸から本丸跡へ戻り、龍潭寺へ下山します。
何度か滑りながらも無事下山。途中何度か野生のお猿さんに遭遇しました。
JR彦根駅から 龍潭寺までが20分ほど、
龍潭寺 観音堂から 佐和山城天主台跡まで25分ほど
下山は、 15分~20分ほど
徒歩で彦根城へ向かいます。
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