大宰府天満宮の大樟 - 福岡県太宰府市宰府 ― 2024-04-06
太宰府天満宮は、大小100本あまりの荘厳な樟によって、天神の杜が形づくられています。
大宰府天満宮の大樟
樹齢1,500年を超える 天満宮を見つめてきた大樟
環境省巨樹巨木林データベースによれば、幹周/12. 50m、樹高/33m。
環境省巨樹巨木林データベースによれば、幹周/12. 50m、樹高/33m。
本殿裏の「夫婦樟」
環境省巨樹巨木林データベースによれば、幹周/9. 82m、樹高/13m
本殿の裏にある摂社・御子社の後方に夫婦樟があります。
本殿の裏にある摂社・御子社の後方に夫婦樟があります。
太宰府天満宮本殿の裏の右手にある句碑の周りも樟の森
「くすの木千年さらにことしの若葉なり」作 荻原井泉水
「くすの木千年さらにことしの若葉なり」作 荻原井泉水
太鼓橋を渡る手前の右手にある大クス。
太鼓橋を渡って、楼門に続く参道の石鳥居横にも大楠が・・
太宰府天満宮に森を載せた屋根を持つ「仮殿」
大分八幡宮の大樟 - 福岡県飯塚市大分1272 ― 2022-11-24
巨樹・巨木――その定義とは?
1988年に環境庁が初めて全国規模での巨樹・巨木林調査を行った際、
「地上から130cmの位置で幹周(幹の円周)が300cm以上の樹木を対象とする」と定め、
現在ではこれが一般的な定義となっています。
何千年、何百年も生き続けている巨樹・巨木
福岡県・佐賀県に、全国巨木第10位内にランクされている巨木が5つもあります。
福岡から日帰りで行ける範囲で訪問しています。
1988年に環境庁が初めて全国規模での巨樹・巨木林調査を行った際、
「地上から130cmの位置で幹周(幹の円周)が300cm以上の樹木を対象とする」と定め、
現在ではこれが一般的な定義となっています。
何千年、何百年も生き続けている巨樹・巨木
福岡県・佐賀県に、全国巨木第10位内にランクされている巨木が5つもあります。
福岡から日帰りで行ける範囲で訪問しています。
大分八幡宮の大樟 - 福岡県飯塚市大分
大分八幡宮 御神木
神功皇后は、三韓征伐から戻るときに三本の樟を持ち帰り、香椎宮・宇美八幡宮・大分八幡宮の三社にそれぞれ植えたと伝えられています。福岡県天然記念物指定を受けている御神木の樟は、その子孫とされています。大陸系の樟で、推定樹齢が約700~800年、胴周り径が約9mです。 福岡県指定天然記念物(1956年7月28日指定)
神功皇后は、三韓征伐から戻るときに三本の樟を持ち帰り、香椎宮・宇美八幡宮・大分八幡宮の三社にそれぞれ植えたと伝えられています。福岡県天然記念物指定を受けている御神木の樟は、その子孫とされています。大陸系の樟で、推定樹齢が約700~800年、胴周り径が約9mです。 福岡県指定天然記念物(1956年7月28日指定)
大分八幡宮(飯塚市)
大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)は 古代に神功皇后が三韓征伐から帰国して 当地で引率していた軍士を解隊し それぞれの故郷に返した時 その大分(オオワカレ)から大分(ダイブ)と称されるようになったと伝わります 筑前国一之宮の「筥崎宮(福岡市)」の元宮とされています
大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)は 古代に神功皇后が三韓征伐から帰国して 当地で引率していた軍士を解隊し それぞれの故郷に返した時 その大分(オオワカレ)から大分(ダイブ)と称されるようになったと伝わります 筑前国一之宮の「筥崎宮(福岡市)」の元宮とされています
一の鳥居の並び、道路側にも大きな樟が・・
田島八幡神社のクスノキ - 福岡市城南区田島4丁目 ― 2022-07-23
矢上八幡神社 ― 長崎市矢上町 ― 2022-05-29
矢上八幡神社 ― 長崎市矢上町
孫の運動会で、長崎市立矢上小学校へ。
運動会終盤、校庭から覗くと金網ごしに 「矢上八幡宮」と大きなクスノキが見えました。
で、帰りに、「矢上八幡宮」に立ち寄りました。
孫の運動会で、長崎市立矢上小学校へ。
運動会終盤、校庭から覗くと金網ごしに 「矢上八幡宮」と大きなクスノキが見えました。
で、帰りに、「矢上八幡宮」に立ち寄りました。
住宅街の路地奥に石段参道があり、大楠と、境内入口の鳥居が正面に、奥は学校のグラウンドです。
八幡神社の境内の石段の上にあるクスノキ2本、参道まで根がはりだした北側のものは
八幡神社の境内の石段の上にあるクスノキ2本、参道まで根がはりだした北側のものは
胸高幹囲10.15 m、境内左側の南側のものは胸高幹囲5.30m、と県下有数の巨木です。
拝殿前に立つ元文2年(1737)建立の二の明神鳥居
小学校の校庭に近い、南側のクスノキは幹囲5.30m
石段参道よこ、北側のクスノキは幹囲10.15 m
小学校の登り口から撮りました。
長崎の東部 諫早市との境に栄えたのが「矢上宿」
平安時代末期、弓の名手であった「源 八郎 為朝」が、この川にかかる橋の上から八幡神社にある大楠(距離約800m)を的に矢を射たという。
そこから、八郎川、八郎橋、八郎岳とついたといわれている。
この伝説の大楠が残るのが「矢上八幡神社」
平安時代末期、弓の名手であった「源 八郎 為朝」が、この川にかかる橋の上から八幡神社にある大楠(距離約800m)を的に矢を射たという。
そこから、八郎川、八郎橋、八郎岳とついたといわれている。
この伝説の大楠が残るのが「矢上八幡神社」
長崎街道と島原街道が合流する旧矢上村は佐賀鍋島藩の家老諌早氏の知行地で、長崎代官支配地と境界を接しており「番所」も置かれていた。
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