葉室 麟の「いのちなりけり 」を読んで、佐賀県小城を散策② 須賀神社・星巖寺2025-07-03

いのちなりけり / 葉室 麟
鍋島家と龍造寺家の因縁、水戸藩と鍋島藩の関係、幕府と朝廷、島原の乱の天草四朗などの話を織り交ぜながら、幕政に不満を抱く朝廷側の中院通茂卿そして水戸光圀と佐賀支藩の小城藩主鍋島元武に対峙する将軍綱吉と大老堀田正俊亡き後暗躍する柳沢保明に抗う雨宮蔵人の生き様が描かれていく。
水戸光圀や助さん格さんに当たる人物も登場する。黄門様とは違って、権力欲が強く好色で非情な人物として描かれていて驚きました。

小城鍋島初代藩主・元茂から二代藩生直能によって造られた名庭園「小城公園」から
須賀神社 - 深川家住宅 - 祥光山星巌寺(じょうこうざんせいがんじ)へ。


【須賀神社】
        須賀神社 一の鳥居

正和5年(1316年)、下総(千葉県)から小城に下向し、千葉城を建造した千葉胤貞が建立したといわれ、境内から美しい街並みを一望できます。市民には「祇園さん」の名で親しまれ、毎年7月には山挽祇園も。真下にはゲンジボタルが飛び交う祇園川が流れています。
須賀神社に行くには、153段の階段を上る。50段ごとに、少し広くなっているので、2度小休止できるようになっています。

祇園川を渡った麓の二の鳥居と神門から一直線に上る急峻な石段が社殿まで繋いでいます。

       二の鳥居と神門

       石段の途中の三の鳥居は、肥前鳥居です

       小休止で、街並みを望む

        社殿






          宝貴稲荷神社 - 社殿向かって右手に鎮座。保食神を祀っています。




   須賀神社の階段を登り、右へ曲がって暫く進むと千葉公園(千葉城)に到着します。


    千葉公園から市街地を望む






太閤腰掛石
豊臣秀吉が、文禄・慶長の役の時に、名護屋城に向かうのに陸路で行ったという史実があるので、途中小城によって鳥居のそばにあった石に座ったといわれている。



村岡羊かん
村岡羊かんは、明治時代の建物で、県の重要文化財に指定されている



深川家住宅
佐賀県遺産として登録されている江戸時代造り酒屋だったそうです。





祥光山星巌寺(じょうこうざんせいがんじ)

        楼門は、9代直堯(なおたか)公が作り、竜宮城に似ているところから、
         中国文化を影響受けているのではないかとのこと。佐賀県重要文化財に登録されている

    楼門の裏は広場になっていて寺院らしきものは見あたらない!
    本堂跡    楼門ができたのが1852年で、残念ながら本堂等は朽ちたため、
    現在は広場になっている。

    落ち葉をはわき管理している方を発見。 墓所・五百羅漢への入り口とわかりました。



五百羅漢    盗難にあったり、壊れたりで数が減ったので、今は二百体弱くらいとのこと。



         小城鍋島家墓所   右側のくぐり戸から入ります。



        初代藩主鍋島元茂公の墓と正室仁王姫の墓。

          二代藩主鍋島直能公の墓。

        四代藩主鍋島元延公の御霊屋。


         五代藩主鍋島直英公の墓

         七代藩主鍋島直愈の墓。

        八代藩主鍋島直知の墓


        

     肥前小城藩主鍋島家墓所 配置図
初代から11代までの墓があるが、3代・6代・9代の墓がない
黄檗宗は、3・6・9の数字を忌み嫌って いたのが理由ではないかということらしい?
3代・6代・9代の墓は、玉毫寺(ぎょくこうじ)の寺にあるそうです。






         開山堂の跡らしい。
         星巖寺を開祖したのは小城市出身の潮音道海和尚で
         現在は物置のような状態になっている。

     報恩堂        藩主それぞれの位牌が置かれている。
             18世紀ごろ建てられたと考えられている。


           藩主それぞれの位牌が並んでいます。


       回廊    この回廊も昔のままの風景を留めているそうです。



                「平成の羅漢」のプレートが右を指しています。

回廊から先に進んだ平成の羅漢エリア、近年作られた可愛い像やユニークな様々な石仏群が並んでいます。






小城市立歴史資料館・桜城館(おうじょうかん)に立ち寄り、戦国時代後半から江戸時代までの数々の資料で学びました。

小説から、ネット情報から、小城鍋島家の話しをいくつも聞きました。
初代鍋島元茂(もとしげ)公は徳川家光に仕え、剣術の達人で柳生宗矩から柳生新陰流の免許皆伝を許された。母親の身分が低かったため、佐賀本藩の藩主鍋島勝茂公の長男にもかかわらず、佐賀本藩を継げなかった。2代藩主直能(なおよし)公は、家光公に仕えていて、和歌が得意でその他にも23くらい免許を持っていたそうだ。奥様が水戸家から嫁いできていたため、3代藩主元武公は水戸光圀公と親しかった。また3代は、5代綱吉公に仕えていて、初代から3代目までは、文武両道だったとのこと。 魅力あふれる小城藩です。


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