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太宰府散策 戒壇院(かいだんいん)・ 観世音寺2019-11-12



観世音寺宝蔵の平安時代から鎌倉時代にかけての仏像を観たくて太宰府へ出かけました。
あと、歩いてゆっくり、政庁跡・観世音寺を散策しました。







戒壇院(かいだんいん)
唐の名僧鑑真和上を招いて創建した「三大戒壇」の一つ。
戒壇院は観世音寺が完成してから15年後天平宝字5年(761年)日本三戒壇のひとつとして観世音寺の区域内に建立された。三戒壇とは奈良東大寺、下野薬師寺、それに観世音寺の戒壇院をいう。戒壇とは中央部に石で築いてある壇のことで、出家する者に対して、僧侶として守るべき戒律を授けるための儀式が行われる場所である。
我が国の戒律は聖武天皇の招請によって唐から来た鑑真和上によって伝えられたが、鑑真和上が奈良に到着した天平勝宝6年(754年)東大寺に戒壇が設けられ、天皇はじめ多くの人に授戒したという。江戸時代に観世音寺から独立して現在では博多聖福寺の末寺となっている。
(太宰府観光協会HPより)










         金堂(県指定文化財)




         講堂(県指定文化財)




講堂正面の石段を登り左手に、日本最古の巨大臼(うす)「碾磑(てんがい)」が置かれている。



五重塔心礎
五重塔の心柱を据えていた部分。直径90cmほどあります。


日本最古の梵鐘(ぼんしょう)
観世音寺
天智天皇が、母・斉明天皇の冥福を祈るため建立を命じた名刹。
『源氏物語』にも登場する観世音寺は、天智天皇が、母君斉明天皇の冥福を祈るために発願されたもので、80年後の聖武天皇の天平18年(746年)に完成した。古くは九州の寺院の中心的存在で、たくさんのお堂が立ちならんでいたが、現在は江戸時代初めに再建された講堂と金堂(県指定文化財)の二堂があるのみである。境内はクスの大樹に包まれ、紅葉、菩提樹、藤、アジサイ、南京ハゼと季節が静かに移る。
(太宰府観光協会HPより)




          頂いたパンフレットをスキャンしました。
          頂いたパンフレットをスキャンしました。

観世音寺宝蔵
昭和34年(1959年)多くの仏像を災害から守り完全な形で保管するため、国・県・財界の有志によって、堅固で正倉院風な周囲の景色に馴染みやすい収蔵庫が建設された。
この中には平安時代から鎌倉時代にかけての仏像16体をはじめ、全て重要文化財の品々が収容されており、居並ぶ古い仏たちに盛時がしのばれる。西日本最高の仏教美術の殿堂のようで、特に5m前後の観音像がずらりと並んでいる様には圧倒される。また仏像の多くが樟材で造られたのも九州の特色といえる。
(太宰府観光協会HPより)











朝日地蔵、日吉神社を散策後に、観世音寺裏に遺構がありました。

僧房跡
講堂の裏側にある、僧房跡。現在地表にある礎石は実物ではなくレプリカであるらしい。



僧正 玄昉の墓
観世音寺講堂の西、道路を隔てた民家の脇にあります。





あと、太宰府散策 (政庁跡・観世コース)をつづけました。



太宰府散策 (政庁跡・観世コース)その弐2019-11-12

観世音寺宝蔵の平安時代から鎌倉時代にかけての仏像を観たくて太宰府へ出かけました。
あと、歩いてゆっくり、政庁跡・観世音寺を散策しました。


観世音寺、観世音寺宝蔵のあと、コクモス畑を抜けます。






朝日地蔵
横岳山崇福寺を創建した禅僧・湛慧のお墓と伝えられます(崇福寺は江戸時代、黒田藩により博多に再建され菩提寺となった寺)。鎌倉時代、毎年1月7日、通りかかった人を鬼として退治する「鬼すべ」の行事に巻き込まれた湛慧は鬼に仕立てられ、散々な目に。屈辱のあまり湛慧は、この地で読経しながら息絶えたと伝えられます。











日吉神社       比叡山の日吉大社の分霊した神社
この神社は観世音寺の鎮守であり、地元では「ヒヨシ神社」と呼ばれる。比叡山の日吉(ひえ)大社を分霊したもので平安時代末には置かれていたらしい。
九州を平定した豊臣秀吉がこの神社に陣を張ったといわれます。









弘法水       榎の根元に湧く清水
榎の根元に湧く水が、清水山観世音寺山号の由来となった水である。
現在は弘法水と呼んでいるが、正式には「清水井」とか「山の井」という。
加藤一純が「清水記」の石碑を建てたのもこの清水である。
池のほとりに観音と弘法の石像が祀られ
(太宰府観光協会HPより)







武藤資頼・資能の墓
鎌倉時代の武将、武藤資頼は源頼朝に命じられ九州統治のトップとなりました。その子の資能は2度の元寇の際に出陣し、勇猛な戦いぶりだったと伝えられます。








史跡大宰府学校院跡
      政庁前の通り、県道76沿いに碑があります。



     旧小字が「学業」。 まんまですね。 「がっきゅう」と読むそうです。




    月山     案内板うらの、小高い丘が月山みたいです。
大宰府政庁跡から東南(十二支で辰)の方角にある丘。「辰山(ときやま)」とも言われます。かつてここに漏刻(水時計)が設置され、鐘と太鼓で時を告げていたとされます。






       話題の坂本八幡宮。令和元年の印が・・・


万葉集の梅の花の歌三十二首の序文にある
『初春の令月(れいげつ)にして 気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ 梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす』

坂本八幡宮
四王寺山の南麓、観世音寺の北西部に広がる坂本地区の氏神様。この神社が建っているところに大和朝廷時代、大宰帥(大宰府の長官)の屋敷があったといわれています。





大宰府政庁跡
平城京、平安京に次ぐ、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)の跡
7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家(みやけ)をここに移し、奈良・平安時代を通して、九州を治め、我が国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)とした。その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものであり、南北22条、東西24坊の都市計画があったという学説がある。万葉集には"遠の朝廷(みかど)"と詠まれ、その規模をしのばせる立派な礎石が残 り、そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて、現在は公園となっている。
(太宰府観光協会HPより)
       歴史の散歩道側から望む。



大宰府展示館の裏に、ありました。 帯塚






月山東地区官衙跡    奥が、仏心寺と冨永朝堂のアトリエ「吐月叢」



※ 数年前訪れた、「歩かんね太宰府!でまち歩き」での散策の様子です。 ↓

太宰府の隠れた伝説と伝承を尋ねて - 歩かんね太宰府!でまち歩き-①    2014-05-29   
    http://kaz1001.asablo.jp/blog/2014/05/29/7329121
太宰府の隠れた伝説と伝承を尋ねて - 歩かんね太宰府!でまち歩き-②    2014-05-29    
    http://kaz1001.asablo.jp/blog/2014/05/29/7329426




帰りに、新しくできた「水城館」を覗きに行きました。

水城跡東門に市の便益施設「水城館」が開館しました!

水城東門跡(官道東門ルート)  水城に設けられた門のひとつ、東門跡です。

          東門の礎石あと。