長崎街道 桂川~上穂波~内野宿 ― 2019-05-02
長崎街道は江戸時代、小倉-長崎間57里(およそ228km)を25か所の宿場で結んでいました。
長崎街道は慶長17年(1612年)に冷水峠が拓かれたことによって小倉から長崎まで57里(228キロ)に25宿が整備されました。
黒田福岡藩内の長崎道は黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田の6宿が設けられ「筑前6宿」と呼ばれます。
黒田福岡藩内の長崎道は黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田の6宿が設けられ「筑前6宿」と呼ばれます。
長崎街道 桂川~上穂波~内野宿
今回、桂川駅からスタート、内野宿、冷水峠を越えて山家宿の山家駅まで歩きました。
筑紫野市側の大根地神社鳥居までは軽快でしたが、鳥居から山家までの国道200号が疲れました。
天開稲荷大明神
JR筑豊本線新茶屋踏切、街道案内板。斜めに横切ります。
豆田天満宮
菅原道真が祀られています。
菅原道真が祀られています。
R200に合流、出雲交差点手前
しばらくR200沿いを歩く
長尾の信号を右折
穂波川に架かる 汐井川橋
筑穂町長尾から穂波町天道までの道筋は、元禄14年(1701)までの間に路線の変更があったそうです。 右折すると古い街道で一里塚・桂川駅方面となります。
筑穂町JR沿いにの榎の大木があります。なぜ街道から外れたこの場所にあるのか??
旧街道沿いの榎の大木の下にある一里塚跡
一里塚 、 一字一石塔 、 猿田彦大神
街道との分岐点に戻ります。
長尾の老松神社
飯塚市穂波支所 街道沿いから見たので裏ですかね!
阿恵の老松神社が見えてきました。 右折すると上穂波駅です。
阿恵の老松神社
阿恵の旧街道沿い
馬出橋(うまでばし)
参勤交代で旧長崎街道を通っていた人々は、ここ(山口川)で馬を洗い休憩していたそうです。
参勤交代で旧長崎街道を通っていた人々は、ここ(山口川)で馬を洗い休憩していたそうです。
虎御前の墓
JR筑豊本線 湯ノ浦踏切。 踏切を渡ると愛宕神社。
愛宕神社
街道と筑豊本線が交差する踏切近くの小高い丘の上にあります。
街道と筑豊本線が交差する踏切近くの小高い丘の上にあります。
猿田彦大神
街道はJR筑豊本線沿いに進みます。
湯之浦公民館
左が国道200号、JR筑豊本線、長崎街道。 横山峠に向かいます。
横山踏切を渡り、国道200号方面へ。
横山の切通/横山峠 (横山踏切より上穂波方面を望む。)
阿恵から内野に向かう途中に岩盤が掘削された切通があります。
長崎街道とJR筑豊本線と国道200号
阿恵から内野に向かう途中に岩盤が掘削された切通があります。
長崎街道とJR筑豊本線と国道200号
内野横山 ・・国道200号の右側のちょっと高いところを街道は進みます。
内野宿が見えてきました。
街道の右は、JR筑豊本線です。
小太公民館
JR筑豊本線 筑前内野駅
長崎街道 飯塚宿~天道~桂川 ― 2019-03-23
長崎街道は慶長17年(1612年)に冷水峠が拓かれたことによって小倉から長崎まで57里(228キロ)に25宿が整備されました。
黒田福岡藩内の長崎道は黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田の6宿が設けられ「筑前6宿」と呼ばれます。
長崎街道 飯塚宿~天道~桂川
飯塚市穂波支所の街道案内板
「黒田長政は、参勤交代など各地の大名が博多を通ることを嫌い、原田から山家・内野・飯塚・木屋瀬・黒崎の筑前六宿を設けて小倉回りのルートを造らせたといわれています。」とあります。
飯塚宿~天道~桂川
西構口を過ぎて、向町橋親柱、穂波川に架かる徳前大橋を渡って南へ・・・
街道は、向町橋から写真右の道につながります。
街道のところどころに、長崎街道のプレートがあります。(安心します)
貴船神社
堀池古川信号を南へ直進(R200バイパスを渡る)
分岐 (googleでは、右の道が長崎街道となっています)
飯塚市穂波支所 屋根が特徴的な建物です。
飯塚市穂波支所の街道案内板
「黒田長政は、参勤交代など各地の大名が博多を通ることを嫌い、原田から山家・内野・飯塚・木屋瀬・黒崎の筑前六宿を設けて小倉回りのルートを造らせたといわれています。」とあります。
県道473号楽市交差点の西側の道が街道です。
楽市小学校
新道交差点を斜めに横断、まっすぐ進みます。
楽市あたりに、素敵な門構えの家を発見。
街道沿いの医院跡でしょうか、門柱に4桁の電話番号が刻んであります。
天道駅手前の河川の上に大きな石柱を横たえて家が建っています。
天道駅 (てんとう)です。
駅裏の大将陣公園の案内
天道駅から県道へ向かいます。
天道宮
天道の県道沿いの町並み
瑞穂菊酒造
常楽寺
常楽寺本殿が線路沿いにあったので、こちらが街道かと、一瞬悩みました!
恵比寿神社
拝殿内に恵比須のお面が飾られており、祠内(神殿)に恵比須様が祀られています。
R200に向かう瀬戸交差点手前の橋の手前を左折です。
一里塚と瀬戸の渡しの案内板
この奥が、瀬戸の渡し。
江戸時代「瀬戸の渡し」と呼ばれた渡し場がありました。この川は「川幅十間ばかり」であり、この川を渡るのは難所の一つに数えられており、参勤交代をするため旧街道を往復する大名行列もここで川を歩いて渡っていました。
街道の分岐点
川庄屋蔵跡
「瀬戸の渡し」の東側に位置します。「瀬戸の渡しのそばに馬つなぎ場があり、近くに茶屋があった。茶屋に親切なお婆さんがおり、お茶のかすを捨てずに取っておき、よく乾かして貧しい人に与えた。もらった人は少しばかりのお礼をした。そのお礼で地蔵様を祭った」と伝えられています。
こんもりした林奥に、川、国道200号。その先が街道の復帰する場所です。
青い点線、田んぼの中をずいぶん迂回しました。
選挙告示が終わり、小川知事が麻生太郎の地元を凱旋しておられました。
街道復帰。右が街道です。桂川駅手間です。
天開稲荷大明神
長崎街道 飯塚宿 ― 2019-03-23
長崎街道は江戸時代、小倉-長崎間57里(およそ228km)を25か所の宿場で結んでいました。
黒田福岡藩内の長崎道は黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田の6宿が設けられ「筑前6宿」と呼ばれます。せめて福岡県内だけでも歩いてみようと、小倉から少しづつ歩いています。
長崎街道 飯塚宿
今回は、飯塚宿から内野宿までと思っていましたが、朝から天気が良くなく飯塚でちょっと時間をつぶしてのスタートとなりました。結果、上穂波で時間切れでした。
河川敷駐車場に車を止めてスタート!
河川敷駐車場に車を止めてスタート!
街道から外れてますが、嘉穂劇場あたりから・・・
千鳥饅頭で名高い千鳥屋本家は寛永7年(1630)創業。
炭坑労働者たちは甘いお菓子が大好きでした。
炭坑労働者たちは甘いお菓子が大好きでした。
筑前六宿のひとつ飯塚宿へ~水陸運の要所から炭鉱町へ~
江戸時代の飯塚宿は、遠賀川と飯塚川が合流する水路交通の要所でした。
江戸時代の飯塚宿は、遠賀川と飯塚川が合流する水路交通の要所でした。
飯塚宿 郡屋跡
郡屋 こうりや・ぐんや : 代官・下代・大庄屋など村役人の会議所で、御茶屋(本陣)の管理・宿場の治安・大名の送迎などの事務をあつかいました。(石碑側面案内より)
郡屋 こうりや・ぐんや : 代官・下代・大庄屋など村役人の会議所で、御茶屋(本陣)の管理・宿場の治安・大名の送迎などの事務をあつかいました。(石碑側面案内より)
飯塚宿 住吉宮跡
寛政七年(1793)市橋小太夫が夢のお告げで石像神体を川底から引き上げ、水神として祭ったと伝えられています。飯塚宿では陸上交通だけではなく、川船の上下する水運の要地で、近くには船頭が住んでいました。(石碑側面案内より)
寛政七年(1793)市橋小太夫が夢のお告げで石像神体を川底から引き上げ、水神として祭ったと伝えられています。飯塚宿では陸上交通だけではなく、川船の上下する水運の要地で、近くには船頭が住んでいました。(石碑側面案内より)
長崎街道 飯塚宿の入り口です。
飯塚宿 東構口跡
飯塚宿 寶月楼跡
宝月楼:飯塚の商人、古川直道の別荘、幕末の福岡の歌人 大隈言道はここで嘉永二年から十年間、飯塚の門弟達の指導をしてました。歌人で勤皇家でもあった野村望東尼も訪れており、地域文化の中心地でした。(石碑側面案内より)
宝月楼:飯塚の商人、古川直道の別荘、幕末の福岡の歌人 大隈言道はここで嘉永二年から十年間、飯塚の門弟達の指導をしてました。歌人で勤皇家でもあった野村望東尼も訪れており、地域文化の中心地でした。(石碑側面案内より)
舫石(もやいいし)
飯塚川を上下していた川艜(かわひらた)を繋ぐために使われた石の柱で、もともとは飯塚宿の問屋場と馬立所があった場所近くの川岸にありました。レプリカですがもうちょっと丁寧に扱ってほしいですね。
飯塚川を上下していた川艜(かわひらた)を繋ぐために使われた石の柱で、もともとは飯塚宿の問屋場と馬立所があった場所近くの川岸にありました。レプリカですがもうちょっと丁寧に扱ってほしいですね。
本町商店街。 長崎街道飯塚宿の街道筋がそのままアーケードになった商店街です。
問屋場跡 : 継ぎ所ともいい、木屋瀬と内野までの人足・馬・貨物の 引き継ぎをおこないました。馬立場(うまたてば)といって 常備馬や、宿駅・助郷制度によって飯塚宿や嘉麻・穂波両郡から 臨時にかりだされた人馬も集っていました。(石碑側面案内より)
黒ポスト
書状集箱(当時木製)を再現し、歴史の再認識を計り、平成11年4月20日通信記念日に、ゆかりのあるこの地(飯塚宿本町)に設置されたものです。現役のポストみたいです。
書状集箱(当時木製)を再現し、歴史の再認識を計り、平成11年4月20日通信記念日に、ゆかりのあるこの地(飯塚宿本町)に設置されたものです。現役のポストみたいです。

八百屋さんに囲まれて写真撮るのが大変でした。 現実の生活が先ですね。
この角に、森鴎外文学碑があるみたいですが、 店舗工事中で見つかりませんでした。
恵比須石跡
ここから東にのびる通りは「恵比須通り」です。街道のここに恵比須石がありましたが、その後、曩祖八幡宮の境内に移されたそうです。
ここから東にのびる通りは「恵比須通り」です。街道のここに恵比須石がありましたが、その後、曩祖八幡宮の境内に移されたそうです。
宿場の繁栄を願って、通りの中央に恵比寿の石像を安置しました。恵比寿は七福神の中のひとりで、鯛を小脇に抱え、釣竿を持って福を授けてくれるものとされ、人々に信仰されました。(石碑側面案内より)
本町商店街からの、太養院参道入り口。 参道正面に、太養院。
参道の途中に、蔵がある古い屋敷が・・・
飯塚山 太養院 明正寺の隣にあり曹洞宗の寺院。行基の開山と伝えられる。
太養院の北側にある 松月山 二尊院 眞福寺
慶長10年(1605)黒田長政公の帰依により堂宇を再建。
慶長10年(1605)黒田長政公の帰依により堂宇を再建。
左が、明正寺。右が、太養院。 御茶屋跡、飯の山への近道らしいです。
玉姫大明神
御茶屋跡
上茶屋あるいは本陣とも呼ばれていました。寛政17年(1640)に黒田忠之が宿場本陣(上茶屋)を設け、参勤交代の大名や長崎奉行の宿泊所としていました。
上茶屋あるいは本陣とも呼ばれていました。寛政17年(1640)に黒田忠之が宿場本陣(上茶屋)を設け、参勤交代の大名や長崎奉行の宿泊所としていました。
飯の山 : 飯塚の地名発祥の場所。太養院に人足のまかないを依頼したが、炊いたご飯が沢山あまり、塚のように高く積み上げたので、ここを「飯の塚(いいのつか)」と呼び、これが転じて「飯塚」になったといわれています
和光山寂定院 明正寺・勢屯り跡
明正寺北隣に大名の本陣があったため、明正寺の前は勢屯りであったという。 象が通ったことで「象の寺」とも呼ばれているという。
上茶屋から降りて来てここで行列の体制を整えていました。大名の行列は通常、宿場や主だった街道沿いの場所でのみ勢を整え、後は早足で移動していました。
明正寺北隣に大名の本陣があったため、明正寺の前は勢屯りであったという。 象が通ったことで「象の寺」とも呼ばれているという。
上茶屋から降りて来てここで行列の体制を整えていました。大名の行列は通常、宿場や主だった街道沿いの場所でのみ勢を整え、後は早足で移動していました。
飯塚本町商店街に戻ります。
長崎街道飯塚宿の街道筋がそのままアーケードになった広域型商店街です。
長崎街道飯塚宿の街道筋がそのままアーケードになった広域型商店街です。
白水橋跡
本町商店街と東町商店街との境目にあり、 現在は横断歩道となっている。
本町商店街と東町商店街との境目にあり、 現在は横断歩道となっている。
街道は、信号を渡って東町商店街へ。
東西にのびる東町商店街を右に。
商店街の中央に、当時の飯塚宿の様子を描いた壁画があります。
「賑わし昔の人も往き交わし 町並み楽し長崎への道」
「賑わし昔の人も往き交わし 町並み楽し長崎への道」
東町商店街の西側を抜け、街道は直進です。 左はコスモスコモンです。
大神宮跡。
宝永3年(1706)6月、この場所で「元大神」と刻まれた光る石が発見され「大神石」と称して祠を建て、曩祖八幡宮の末社として崇め祀ってきました。明治42年(1909)本社の曩祖八幡宮に合祠された後その神社跡が荒れることを畏れて、神の栄を念じて井戸を掘り、湧き出る清水を利用して神に捧げる酒造りを始めました。銘を「神の栄」とし、希少なお酒だったそうです。
飯塚宿西構口
構口というのは宿場の入り口にあって、両端に街路と直角に石垣を築いて短い築地塀を設けたものです。飯塚宿の場合、構口はかつては北・南の呼称を使用していたそうです。
構口というのは宿場の入り口にあって、両端に街路と直角に石垣を築いて短い築地塀を設けたものです。飯塚宿の場合、構口はかつては北・南の呼称を使用していたそうです。
向町観音堂。 西構口の正面にある大師堂です。
飯塚宿をあとに、西構口より徳前大橋へ、南に向かいます。
向町橋親柱
向町橋は大正2年架設。穂波川をまたぐ橋として重要な役割を果たしました。
向町橋は大正2年架設。穂波川をまたぐ橋として重要な役割を果たしました。
徳前大橋を渡って、天道方面へ向かいます。
天道(てんとう)・桂川・上穂波を経由して、内野宿に。
長崎街道 小竹 ~ 飯塚 ― 2019-02-23
長崎街道は江戸時代、小倉-長崎間57里(およそ228km)を25か所の宿場で結んでいました。
長崎街道は慶長17年(1612年)に冷水峠が拓かれたことによって小倉から長崎まで57里(228キロ)に25宿が整備されました。
黒田福岡藩内の長崎道は黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田の6宿が設けられ「筑前6宿」と呼ばれます。
長崎街道は慶長17年(1612年)に冷水峠が拓かれたことによって小倉から長崎まで57里(228キロ)に25宿が整備されました。
黒田福岡藩内の長崎道は黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田の6宿が設けられ「筑前6宿」と呼ばれます。
長崎街道 小竹 ~ 飯塚
JR小竹駅から飯塚宿を目指します。
小竹は、木屋瀬宿と飯塚宿の中継地点にあたる“間の宿(あいのしゅく)”。
街道を歩くと、郡境石や貴船神社など、当時の面影が残る風景を見ることができました。
小竹は、木屋瀬宿と飯塚宿の中継地点にあたる“間の宿(あいのしゅく)”。
街道を歩くと、郡境石や貴船神社など、当時の面影が残る風景を見ることができました。
遠賀川沿いから役場の方へ
小竹十三仏
遠賀川沿いのR200より右へ街道の住宅が続きます。
実相寺
龍屋寺
白壁の町並み
小竹 今お休み処 -- 小竹街道筋の情報満載の休憩所です。
貴船神社
御小休所(原田家現在の龍徳屋酒店)
長籔騒動について説明がありました。
小竹地蔵尊
六地蔵
涅槃像 ・・ 左脇を下にしたもので珍しいらしいです。
郡境石
嘉穂郡と鞍手郡の境に建てられた石。「従是北鞍手郡 勝野村」
ここから北は鞍手郡であることを意味し、勝野村とあるのは勝野村が自らの意思でこの石を建てたことの表れだと思われるが、その経緯と時代についての詳細は発見されていない。
嘉穂郡と鞍手郡の境に建てられた石。「従是北鞍手郡 勝野村」
ここから北は鞍手郡であることを意味し、勝野村とあるのは勝野村が自らの意思でこの石を建てたことの表れだと思われるが、その経緯と時代についての詳細は発見されていない。
(説明版より)
目尾交差点 ・・ 目尾(しゃかのお) と読みます。 横切ってフェンス沿いの道を進む。
目尾(しゃかのお)の旧街道沿い
目尾の地蔵堂(高聖奥の院)・・レンガ造りの地蔵堂
遠賀川に架かるJR筑豊本線高架。 右に遠賀川堤防沿いを進む。
鯰田渡交差点 ・・ 渡しの名前が残っています。
国道200号線より遠賀川河川敷方面へ、左に入る。
遠賀川河川敷から街道は右に下ります。
白壁の商家 伊藤伝衛門邸の少し前の街道です。
天心山無極寺 伊藤伝衛門邸の前に位置する浄土真宗本願寺派のお寺です。
伊藤伝衛門邸
許斐交差点を右に入ります。
高林寺
パチンコ屋うらの住宅街を進みます。
東川津の信号を渡って裏の道が街道です。
住宅街を右に左に、細い路地を進みます。河津公園の手前を左折。(解りにくい)
正面の建花寺川の向こうへ街道は続く。
正面の建花寺川の向こうへ街道は続く。
(水江交差点)の橋を渡って、直進した位置に来ました。
志賀社の祠(片島の祠)
観音堂 小さい観音堂です。古い木製の観音様がいらっしゃいます。
街道沿いの片島の町並み
竹園寺
片島1丁目の信号を直進します。
白藤醤油製造元
オランダ屋敷跡
観音寺の入り口
嚢祖八幡宮
飯塚の総鎮守です。
飯塚天満宮・嚢祖八幡宮 ・祇園宮と3つの鳥居が並んでいます。
目の前が、飯塚宿の東構口です。 次回はここからスタートです。
朝8:30、福岡天神よりバスで直方へ。 前回の続きで多賀神社よりスタート。
途中、JR勝野-JR小竹は電車移動。
ふたたび小竹より街道歩き。 16:00のバスで福岡に帰りました。
長崎街道 直方の城下町から小竹 2019-02-23
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2019/02/23/9040035
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2019/02/23/9040035
長崎街道 木屋瀬宿 旧高崎家住宅・村庄屋跡(松尾家) 2018-11-14
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2018/11/17/9000054
長崎街道 木屋瀬宿 ~ 直方 2018-11-14
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2018/11/14/8998938
長崎街道 立場茶屋銀杏屋・石坂の急坂 (北九州市八幡西区石坂) 2018-11-12
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2018/11/12/8996874
長崎街道 城下町小倉 ~ 黒崎宿 ④ 2018-11-08
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2018/11/08/8995579
長崎街道 城下町小倉 ~ 黒崎宿 ③ 2018-11-08
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2018/11/08/8994829
長崎街道 城下町小倉 ~ 黒崎宿 ② 2018-11-08
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2018/11/08/8993996
長崎街道 城下町小倉 ~ 黒崎宿 ① 2018-11-08
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2018/11/08/8990955
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2018/11/17/9000054
長崎街道 木屋瀬宿 ~ 直方 2018-11-14
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2018/11/14/8998938
長崎街道 立場茶屋銀杏屋・石坂の急坂 (北九州市八幡西区石坂) 2018-11-12
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2018/11/12/8996874
長崎街道 城下町小倉 ~ 黒崎宿 ④ 2018-11-08
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2018/11/08/8995579
長崎街道 城下町小倉 ~ 黒崎宿 ③ 2018-11-08
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2018/11/08/8994829
長崎街道 城下町小倉 ~ 黒崎宿 ② 2018-11-08
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2018/11/08/8993996
長崎街道 城下町小倉 ~ 黒崎宿 ① 2018-11-08
http://kaz1001.asablo.jp/blog/2018/11/08/8990955
長崎街道 直方の城下町から小竹 ― 2019-02-23
長崎街道は江戸時代、小倉-長崎間57里(およそ228km)を25か所の宿場で結んでいました。
長崎街道 直方の城下町から小竹
直方の城下町から飯塚宿まで地図をたよりに歩きました。
JR直方駅 、 直方市出身で、元大関魁皇の銅像。
JR直方駅の少し南にある多賀公園の周辺が長崎街道。
先ずは、多賀神社よりスタートです。
長崎街道は、正面多賀神社鳥居より左折です。
多賀神社は、鳥居から階段でJRを超えます。
多賀神社より南に向かいます。
東蓮寺藩陣屋跡-[雙林院]
新町北公園に案内板があります。
直方陣屋跡 公園の西側、多賀公園が陣屋跡みたいです。
新町北口跡
ここは直方が城下町であったころの、町人の居住地と武家屋敷の境で、
南が町人の住む新町、北側が武家屋敷になっていたそうです。
ここは直方が城下町であったころの、町人の居住地と武家屋敷の境で、
南が町人の住む新町、北側が武家屋敷になっていたそうです。
新町北口跡付近から、飯塚方面南側を望む。
尾崎口跡 黒田支藩の城下町であった時代(1623-1720)の南の出入口跡。
筑豊本線、平成筑豊鉄道伊田線が走る踏切を渡り左折。
貴船神社
直方市山辺 - 街道はここを飯塚宿に向かって大きく右にカーブする。
岩鼻踏切(筑豊本線)
直方・小竹の間には川に突き出た岩山(岩鼻の場所)が通行を妨げていた。
飯塚方面を望む。西側(写真右)が突き出た岩山。
直方方面を望む。東側(写真右)にも岩山が残っています。
街道はJR勝野駅の北側ののどかな田園を南下する。
街道は宮若市鶴田の集落を抜ける。
途中長崎街道の案内はほとんどなかったが、立派な石板が・・・
長崎街道「駕籠立場跡」 (宮若市鶴田)
集落を抜けると小竹町南良津、南西に橋が見えます。
水門は飯塚宿に向って橋の手前左側に下り口があります。「とんとん唐戸橋」
次は、小竹駅に向かいますがR200を南下するだけなので、バスを考えるがありません。
勝野駅まで戻って小竹駅までJR筑豊本線で行こうと! でも1時間に1本、40分待ち!!!
57分の直方行き上りが出発。あと20分待ち!
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