長崎街道 飯塚宿 ― 2019-03-23
長崎街道は江戸時代、小倉-長崎間57里(およそ228km)を25か所の宿場で結んでいました。
黒田福岡藩内の長崎道は黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田の6宿が設けられ「筑前6宿」と呼ばれます。せめて福岡県内だけでも歩いてみようと、小倉から少しづつ歩いています。
長崎街道 飯塚宿
今回は、飯塚宿から内野宿までと思っていましたが、朝から天気が良くなく飯塚でちょっと時間をつぶしてのスタートとなりました。結果、上穂波で時間切れでした。
河川敷駐車場に車を止めてスタート!
河川敷駐車場に車を止めてスタート!
街道から外れてますが、嘉穂劇場あたりから・・・
千鳥饅頭で名高い千鳥屋本家は寛永7年(1630)創業。
炭坑労働者たちは甘いお菓子が大好きでした。
炭坑労働者たちは甘いお菓子が大好きでした。
筑前六宿のひとつ飯塚宿へ~水陸運の要所から炭鉱町へ~
江戸時代の飯塚宿は、遠賀川と飯塚川が合流する水路交通の要所でした。
江戸時代の飯塚宿は、遠賀川と飯塚川が合流する水路交通の要所でした。
飯塚宿 郡屋跡
郡屋 こうりや・ぐんや : 代官・下代・大庄屋など村役人の会議所で、御茶屋(本陣)の管理・宿場の治安・大名の送迎などの事務をあつかいました。(石碑側面案内より)
郡屋 こうりや・ぐんや : 代官・下代・大庄屋など村役人の会議所で、御茶屋(本陣)の管理・宿場の治安・大名の送迎などの事務をあつかいました。(石碑側面案内より)
飯塚宿 住吉宮跡
寛政七年(1793)市橋小太夫が夢のお告げで石像神体を川底から引き上げ、水神として祭ったと伝えられています。飯塚宿では陸上交通だけではなく、川船の上下する水運の要地で、近くには船頭が住んでいました。(石碑側面案内より)
寛政七年(1793)市橋小太夫が夢のお告げで石像神体を川底から引き上げ、水神として祭ったと伝えられています。飯塚宿では陸上交通だけではなく、川船の上下する水運の要地で、近くには船頭が住んでいました。(石碑側面案内より)
長崎街道 飯塚宿の入り口です。
飯塚宿 東構口跡
飯塚宿 寶月楼跡
宝月楼:飯塚の商人、古川直道の別荘、幕末の福岡の歌人 大隈言道はここで嘉永二年から十年間、飯塚の門弟達の指導をしてました。歌人で勤皇家でもあった野村望東尼も訪れており、地域文化の中心地でした。(石碑側面案内より)
宝月楼:飯塚の商人、古川直道の別荘、幕末の福岡の歌人 大隈言道はここで嘉永二年から十年間、飯塚の門弟達の指導をしてました。歌人で勤皇家でもあった野村望東尼も訪れており、地域文化の中心地でした。(石碑側面案内より)
舫石(もやいいし)
飯塚川を上下していた川艜(かわひらた)を繋ぐために使われた石の柱で、もともとは飯塚宿の問屋場と馬立所があった場所近くの川岸にありました。レプリカですがもうちょっと丁寧に扱ってほしいですね。
飯塚川を上下していた川艜(かわひらた)を繋ぐために使われた石の柱で、もともとは飯塚宿の問屋場と馬立所があった場所近くの川岸にありました。レプリカですがもうちょっと丁寧に扱ってほしいですね。
本町商店街。 長崎街道飯塚宿の街道筋がそのままアーケードになった商店街です。
問屋場跡 : 継ぎ所ともいい、木屋瀬と内野までの人足・馬・貨物の 引き継ぎをおこないました。馬立場(うまたてば)といって 常備馬や、宿駅・助郷制度によって飯塚宿や嘉麻・穂波両郡から 臨時にかりだされた人馬も集っていました。(石碑側面案内より)
黒ポスト
書状集箱(当時木製)を再現し、歴史の再認識を計り、平成11年4月20日通信記念日に、ゆかりのあるこの地(飯塚宿本町)に設置されたものです。現役のポストみたいです。
書状集箱(当時木製)を再現し、歴史の再認識を計り、平成11年4月20日通信記念日に、ゆかりのあるこの地(飯塚宿本町)に設置されたものです。現役のポストみたいです。

八百屋さんに囲まれて写真撮るのが大変でした。 現実の生活が先ですね。
この角に、森鴎外文学碑があるみたいですが、 店舗工事中で見つかりませんでした。
恵比須石跡
ここから東にのびる通りは「恵比須通り」です。街道のここに恵比須石がありましたが、その後、曩祖八幡宮の境内に移されたそうです。
ここから東にのびる通りは「恵比須通り」です。街道のここに恵比須石がありましたが、その後、曩祖八幡宮の境内に移されたそうです。
宿場の繁栄を願って、通りの中央に恵比寿の石像を安置しました。恵比寿は七福神の中のひとりで、鯛を小脇に抱え、釣竿を持って福を授けてくれるものとされ、人々に信仰されました。(石碑側面案内より)
本町商店街からの、太養院参道入り口。 参道正面に、太養院。
参道の途中に、蔵がある古い屋敷が・・・
飯塚山 太養院 明正寺の隣にあり曹洞宗の寺院。行基の開山と伝えられる。
太養院の北側にある 松月山 二尊院 眞福寺
慶長10年(1605)黒田長政公の帰依により堂宇を再建。
慶長10年(1605)黒田長政公の帰依により堂宇を再建。
左が、明正寺。右が、太養院。 御茶屋跡、飯の山への近道らしいです。
玉姫大明神
御茶屋跡
上茶屋あるいは本陣とも呼ばれていました。寛政17年(1640)に黒田忠之が宿場本陣(上茶屋)を設け、参勤交代の大名や長崎奉行の宿泊所としていました。
上茶屋あるいは本陣とも呼ばれていました。寛政17年(1640)に黒田忠之が宿場本陣(上茶屋)を設け、参勤交代の大名や長崎奉行の宿泊所としていました。
飯の山 : 飯塚の地名発祥の場所。太養院に人足のまかないを依頼したが、炊いたご飯が沢山あまり、塚のように高く積み上げたので、ここを「飯の塚(いいのつか)」と呼び、これが転じて「飯塚」になったといわれています
和光山寂定院 明正寺・勢屯り跡
明正寺北隣に大名の本陣があったため、明正寺の前は勢屯りであったという。 象が通ったことで「象の寺」とも呼ばれているという。
上茶屋から降りて来てここで行列の体制を整えていました。大名の行列は通常、宿場や主だった街道沿いの場所でのみ勢を整え、後は早足で移動していました。
明正寺北隣に大名の本陣があったため、明正寺の前は勢屯りであったという。 象が通ったことで「象の寺」とも呼ばれているという。
上茶屋から降りて来てここで行列の体制を整えていました。大名の行列は通常、宿場や主だった街道沿いの場所でのみ勢を整え、後は早足で移動していました。
飯塚本町商店街に戻ります。
長崎街道飯塚宿の街道筋がそのままアーケードになった広域型商店街です。
長崎街道飯塚宿の街道筋がそのままアーケードになった広域型商店街です。
白水橋跡
本町商店街と東町商店街との境目にあり、 現在は横断歩道となっている。
本町商店街と東町商店街との境目にあり、 現在は横断歩道となっている。
街道は、信号を渡って東町商店街へ。
東西にのびる東町商店街を右に。
商店街の中央に、当時の飯塚宿の様子を描いた壁画があります。
「賑わし昔の人も往き交わし 町並み楽し長崎への道」
「賑わし昔の人も往き交わし 町並み楽し長崎への道」
東町商店街の西側を抜け、街道は直進です。 左はコスモスコモンです。
大神宮跡。
宝永3年(1706)6月、この場所で「元大神」と刻まれた光る石が発見され「大神石」と称して祠を建て、曩祖八幡宮の末社として崇め祀ってきました。明治42年(1909)本社の曩祖八幡宮に合祠された後その神社跡が荒れることを畏れて、神の栄を念じて井戸を掘り、湧き出る清水を利用して神に捧げる酒造りを始めました。銘を「神の栄」とし、希少なお酒だったそうです。
飯塚宿西構口
構口というのは宿場の入り口にあって、両端に街路と直角に石垣を築いて短い築地塀を設けたものです。飯塚宿の場合、構口はかつては北・南の呼称を使用していたそうです。
構口というのは宿場の入り口にあって、両端に街路と直角に石垣を築いて短い築地塀を設けたものです。飯塚宿の場合、構口はかつては北・南の呼称を使用していたそうです。
向町観音堂。 西構口の正面にある大師堂です。
飯塚宿をあとに、西構口より徳前大橋へ、南に向かいます。
向町橋親柱
向町橋は大正2年架設。穂波川をまたぐ橋として重要な役割を果たしました。
向町橋は大正2年架設。穂波川をまたぐ橋として重要な役割を果たしました。
徳前大橋を渡って、天道方面へ向かいます。
天道(てんとう)・桂川・上穂波を経由して、内野宿に。
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