綾城 -- 宮崎県東諸県郡綾町大字北俣 ― 2015-09-16
写真は click! で拡大されます。
中世の山城を復元した建物です。いまから650年ほど前の元弘年間に築城され、伊東氏48城の一つとして島津と戦う伊東方の重要な拠点になっていました。
綾城のはじまりは、今からおよそ660年前の元弘年間(1331年~1334年)足利尊氏の家臣であった細川小四郎義門がこの地方に下向を命ぜられ、その子義遠が収納使として綾を領有し、綾に山城を構え、綾氏と称したころと考えられています。
綾氏は数代城主としてこの地方を治めていましたが、室町時代八代将軍義政のころ、都於郡城を根拠として日向の国の一大豪族となった伊東氏の家臣となりました。したがって、綾城も伊東氏48城の一つとなり島津氏と戦う伊東方の重要な役割を果たしました。
その後江戸時代の一国一城制度により廃止されるまでの二百七十余年、綾城は日向の国の山城のまもりとして、現在の綾城は昭和60年春日本城郭協会に中世山城の築城について考察を依頼し、数次の調査に基づいた考察により想定され、戦国初期城楼建造物として構築されました。
別名 竜尾城
築城年代 元弘年間(1331~34)創築
築城者 細川小四郎義門
築城様式 戦国豪族の居城
主要城主 細川氏・伊東氏・島津氏
構造 縦20m横24mの石垣を土台にした
木造2層建物見やぐら付
地上からの高さ 19m
綾城面積 1階 216平方メートル
2階 192平方メートル
物見やぐら 24.89平方メートル
(綾町役場 HPより)
かつての綾城がこのような建築物であったというわけではありません。
綾城は、"中世山城とは・中世から戦国時代の城郭とは" どのようなものかと理解するのにちょうどよいお城だと思います。
飫肥城 -- 宮崎県日南市飫肥 ― 2015-09-16
写真は click! で拡大されます。
飫肥城 大手門(再建)
飫肥城旧本丸へ
ひんやりとした、苔と飫肥杉が林立、心を落ち着かせる。
旧本丸北門(復元)
NHK連続テレビ小説わかばのロケ地になったことでも有名である。
旧本丸跡入り口。礎石のあと。 御門があったのでしょう。
江戸時代の書院造りの御殿を再建したという松尾の丸
飫肥城歴史資料館
犬馬場から歴史資料館を望む。
近年では1978年に大手門が復元されたほか、本丸跡には日南市立飫肥小学校(藩校の振徳堂が前身)が建てられている。たくさんの子供たちが元気よく挨拶してくれます。
-------------------------------------------------------------------------
(Wikipedia より抜粋)
飫肥城 (宮崎県)
大手門(再建)
城郭構造 群郭式平山城
天守構造 建造されず
築城主 土持氏
築城年 戦国初期
主な改修者 伊東祐兵
主な城主 土持氏、新納氏、伊東氏
廃城年 1871年
遺構 石垣
指定文化財 日南市史跡
再建造物 御殿・櫓門・門・塀
飫肥城(おびじょう)は、日向国南部(現在の宮崎県日南市飫肥)にある日本の城である。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄した。飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城である。
飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれていた。時代は下って、室町時代末期の長禄2年(1458)九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、志布志城主で島津氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させた。
伊東氏の没落によって両氏の争いに終止符が打たれたかに思われたが、飫肥を失った伊東祐兵が羽柴秀吉に仕え、九州征伐に参加し活躍した戦功により再び飫肥の地を取り返し、大名として復活を成し遂げた。以後、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで伊東氏の領するところとなった。江戸期、伊東氏は豊臣系の外様大名という微妙な地位ながらも飫肥の地で家名を全うしたが、ひとえに関ヶ原の戦いで東軍側にたった数少ない九州大名だったことが物を言ったのであろう。
-------------------------------------------------------------------------
近年では1978年に大手門が復元されたほか、本丸跡には日南市立飫肥小学校(藩校の振徳堂が前身)が建てられている。たくさんの子供たちが元気よく挨拶してくれます。
-------------------------------------------------------------------------
(Wikipedia より抜粋)
飫肥城 (宮崎県)
大手門(再建)
城郭構造 群郭式平山城
天守構造 建造されず
築城主 土持氏
築城年 戦国初期
主な改修者 伊東祐兵
主な城主 土持氏、新納氏、伊東氏
廃城年 1871年
遺構 石垣
指定文化財 日南市史跡
再建造物 御殿・櫓門・門・塀
飫肥城(おびじょう)は、日向国南部(現在の宮崎県日南市飫肥)にある日本の城である。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄した。飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城である。
飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれていた。時代は下って、室町時代末期の長禄2年(1458)九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、志布志城主で島津氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させた。
伊東氏の没落によって両氏の争いに終止符が打たれたかに思われたが、飫肥を失った伊東祐兵が羽柴秀吉に仕え、九州征伐に参加し活躍した戦功により再び飫肥の地を取り返し、大名として復活を成し遂げた。以後、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで伊東氏の領するところとなった。江戸期、伊東氏は豊臣系の外様大名という微妙な地位ながらも飫肥の地で家名を全うしたが、ひとえに関ヶ原の戦いで東軍側にたった数少ない九州大名だったことが物を言ったのであろう。
-------------------------------------------------------------------------
駐車場近くの案内センターで、戦国時代を詳しく説明してくれる係りの方がおられました。
豫松館
小村記念館
クリーニング屋さんでした。町の景観を守ってらっしゃいます。
ゴミの日の案内もシック。
飫肥・商家資料館
JR九州-日南線 飫肥駅
大谷石橋 -- 宮崎県日南市大字酒谷 ― 2015-09-16
国道222号を日南市から都城市方面に向かい、酒谷キャンプ場入口を過ぎると右手に、酒谷川へそそぐ清らかな大谷川、それに架かるアーチ状の古い石橋があります。木立の緑、川のせせらぎと調和し清閑な美しさを誇っています。
明治22年に架けられた大谷橋は、日南市と都城市を結ぶ国道として重要な役割を果たしていましたが、昭和46年に新しい国道が完成するとともに、忘れ去られてしまいました。
飫肥城を訪れましたので、ちょっと足をのばしてみました。
明治22年に架けられた大谷橋は、日南市と都城市を結ぶ国道として重要な役割を果たしていましたが、昭和46年に新しい国道が完成するとともに、忘れ去られてしまいました。
飫肥城を訪れましたので、ちょっと足をのばしてみました。
小布瀬の滝近くです。 目の前の杉が大きくなって写真が撮りにくいです。
橋長:22m 幅:3.5m
架設:明治22年11月
橋長:22m 幅:3.5m
架設:明治22年11月
とって変わった国道の大谷橋。奥の杉の先が、大谷石橋です。
最近のコメント