簡単アクセスカウンター
アクセスカウンター

八代市鏡町 -- 大鞘樋門群(おざやひもんぐん) (県指定)2015-08-23

大鞘樋門群(おざやひもんぐん) (県指定)
所在地・・・八代市鏡町両出・同千丁町古閑出


               「大鞘名所発祥之地」の顕彰碑

江中樋4枚戸(現3枚戸)    西側から望む
                                   東側から望む


                      二番樋3枚戸                    西側から望む
                                                           東側から望む


                                     殻樋5枚戸 -- 修復中でした
大鞘樋門
http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/list/list_view.phtml?catid=150602&arid=11587
八代市HP  掲載課:観光振興課( 0965-33-4115 )
で、写真が見れます。

現地案内板

大鞘樋門群(おざやひもんぐん) (県指定)
所在地・・・八代市鏡町両出・同千丁町古閑出
大鞘樋門群は、鏡町両出の字大鞘に所在し、千丁町を境に流れる大鞘川に接しています。
 鏡町は元禄年間から数多くの新地干拓によって、その面積を増やし発展してきた地区であり、当樋門群は四百町新地開における北西部に造られました。
当初は五つの樋門で構成されましたが、このうち二つは新橋架け替えと、埋没により、現在は「殻樋」「二番樋」「江中樋」と呼ばれる三つの樋門が残ります。
 大鞘樋門の名称は、樋門の周りを囲む鞘石(石垣)が非常に堅固だったことから名付けられたと伝えられており、その周辺もまた大鞘と呼ばれるようになりました。
 文政2年(1819)9月24日に四百町新地の潮留めは完成しました。
 耕地337町9反が新たに上納地に加えられました。
 このとき築造された樋門が大鞘樋門と呼ばれ、これまでの「御国流」よりもすこぶる堅牢で鞘石垣に巨石を使い、備前流といわれる樋門の革新的技法を取り入れています。
 水門は五ヶ所で、北から殻樋5枚戸、二番樋3枚戸、江中樋4枚戸(現3枚戸)、新殻樋7枚戸(昭和42年3月新橋に架け替えました)、三番樋3枚戸(埋没)です。
現存する殻樋は備前流と呼ばれている築造技法であり、二番樋、江中樋は合法と呼ばれる構築法になっています。
 備前流は、備前(現在の岡山県)の石工高野貞七の設計により、これまでより堅固に作られ、一部に巨石を使い、工事の監督であった広松輔周が無理に巨石を使わせたので、「広松のもがい井樋」ともいわれています。
 引き続いて文政4年(1821)に七百町新地が干拓されましたが、この後の樋門はすべて備前流、合法により築造されています。
 七百町新地干拓の折、ここの樋門堤防に長い小屋を作り、天草からの出稼ぎ労働者を収容しました。
 誰が言うとなく、「名所名所と大鞘が名所、大鞘名所にゃ水がない」という唄がうたわれ出し、新地干拓の潟担い労働唄として郷土民謡大鞘名所の発祥地となりました。
 昭和46年には、「大鞘名所発祥之地」の顕彰碑が、旧鏡町と旧千丁町の合同でこの樋門横に建立されています。             (八代市 文化振興課)




2014年に訪れた  郡築三番町樋門  はこちら ↓  
     http://kaz1001.asablo.jp/blog/2014/08/25/7421368

熊本県玉名市横島町 - 旧玉名干拓施設、潮受堤防と末広開(旧)樋門群 ↓
      http://kaz1001.asablo.jp/blog/2015/04/01/7602005

八代市鏡町 -- 肥後の名石工が作った石橋「鑑内橋」2015-08-23

鑑内橋            
所在地:    熊本県八代市鏡町鏡
1830年頃肥後の名石工、岩永三五郎がつくったといわれ、現在町内に残っている唯一のめがね橋です。
 橋の長さは7.2メートル、径間5.5メートル、幅2.8メートルです。明治10年の西南の役に日奈久に上陸して北上する官軍の斥候と熊本城を包囲していた薩軍から派遣され、南下中の斥候とが、初めて出会ったところで、その情報によって薩軍は氷川の線に陣地をかまえ両軍が戦いを交えました。(八代市 観光振興課)







眼鏡橋の奥に、史跡案内がありました。
-------------------------------------------------------------------------
史跡 御高札場跡
ここは旧藩時代、津口に近く、八代~松橋の下往還の要所であった。
庶民に法令を徹底させるため、法度や掟書を書いた立札や犯罪人の罪状をかかげた御高札場の跡である。
宮原・坂本などは二枚立であったが、ここは八代町徳淵と共に十一枚立であった。
また、そばの眼鏡橋は、この道と同様下往還の昔を忍ばせている。
                                                                      昭和四六年一月 鏡町教育委員会
-------------------------------------------------------------------------



           眼鏡橋から200-300m位下流に、鏡町発展に寄与した人物の碑があります。
犬塚安太の碑
鹿子木親子が干拓した芝口村と文政村によって米の収穫が飛躍的に増大下が一方、海が遠くなり鏡町の商業、漁業に大打撃を与えた。
惣庄屋となった犬塚安太は藩の許しを受け3Kmの長さの「鏡入り江」を文政13年(1830)に開いた。
入り江は鏡町、内田まで入り漁船の往来、貨物の運輸ができるようになり天草、長崎方面の交易が自由に盛んになった。 鏡町の商業が盛んになったのもこの頃からと思われる。

秋田正雄の碑
安政2年(1855年)生まれ、明治25年野崎尻の石にコケが着いているのを発見、これを秋田正雄に見せたところ海苔と分かり、正雄はこれを養殖すべき研究をし郷土の産業に育てた。大正13年69才で亡くなる。

八代海からかなり入った処です。「鏡入り江」


過去訪問した石橋をまとめています。  INDEX石橋 ↓
                                http://kaz1001.asablo.jp/blog/cat/index/

八代市氷川町宮原 -- 郡代御詰所(ぐんだいおつめしょ)眼鏡橋2015-08-23


郡代御詰所(ぐんだいおつめしょ)眼鏡橋
所在地:   熊本県八代市氷川町宮原字東段
時  期:   天保年間(1830~1844年)
八代郡代(幕府直轄の警察・租税・民政を取り扱う役人)の詰所(役人が勤めているところ)のたもとに石橋があったので、こう呼ばれています。
長さ12m、幅2.9mで、薄い石組みですが、すっきりしたアーチを描いています。



当地点より約二百メートル下流にこの石橋があった。八代郡代(幕府直轄の警察・租税・民政を取り扱う役人)の詰所(役人が勤めているところ)のたもとに石橋があったので、「八代郡代の御詰所のめがね橋」と言われてきた。
宮原町の昔は八代郡の行政的中心地であり、参勤交代の通路になっていて、河原町(竜北町)とともに在町を形づくっていた。
天保12年(1842)ごろ八代郡代の愛嬌某という人が井手明神から上流に向かって道路を開発したため宮原町は発達した。
この石橋は、種山(東陽村)から歩いてきて上宮(かみみや)に渡る大切な橋であった。昭和54年4月、一の井手用水路改修のため当地点に移転復元された。(案内板より)


国道三号線の宮原交差点を八代市東陽町・五木村方面への国道443号線を1kmほど行った右側に見えます。石工の里「八代市東陽町」まで車で10分ほどです。石匠館行くときにお見逃しなく。



過去訪問した石橋をまとめています。  INDEX石橋 ↓
                                http://kaz1001.asablo.jp/blog/cat/index/

熊本県宇城市三角町三角浦 -- 三角西港(世界遺産)2015-08-23





三角西港は、明治20年に築港されました。特筆すべきは、当時の最新の技術を用いて近代的な港湾都市を造ったという点です
756メートルにもおよぶ石積みの埠頭や水路、建造物などは築港後1世紀の歴史を持ちながら今なお厳然としてたたずまいを見せています。

設計はオランダ人工師ムルドル、施工は小山(こやま)秀(ひで)率いる天草の石工集団であると言われている。
当時は石積みによる築港が多かったが、全長約756メートルの埠頭は他港と比べても圧巻である。
また、埠頭、排水路、側溝は、対岸の飛岳や、天草などから切り出した石を使っており、三角町史によれば延べ13万人の石工が従事したと記されている。














ちなみに現在の国道57号線の道路幅員は築港当時のままであり、その先見性に驚かされる。




756メートルにもおよぶ石積みの埠頭や水路は圧巻です。第2駐車場あたりから左右を望む。


「静穏な」はずの港の潮流が思いのほか早く、船がうまく着岸できないこと
入航、出航にあたり、三角港、口之津港と2回も税関で検査を受ける手間
鉄道建設が険しい岸壁に阻まれ、網田駅から八代海側に敷設を余儀なくされたため、現在の三角東港が終点の駅となった。 
そのことが功を奏し、石積み埠頭を始め、当時の施設がほぼ原形のままで残されることとなる.。





2015-3月に訪れました大牟田 ↓
大牟田市の近代遺産 - 宮浦石炭記念公園・三池炭鉱宮原坑     2015-03-31
     http://kaz1001.asablo.jp/blog/2015/03/31/7601059



2014-10月に訪れた荒尾 ↓
熊本県荒尾市 万田坑 散策。 (JR Walk 荒尾) 2014-10-04    
     http://kaz1001.asablo.jp/blog/2014/10/07/7452296