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太宰府の隠れた伝説と伝承を尋ねて - 歩かんね太宰府!でまち歩き-①2014-05-29

「太宰府の隠れた伝説と伝承を尋ねて」
西鉄都府楼前駅に9時集合。参加費 500円。
新聞の小さな案内記事を見て参加してみました。

関屋橋を渡るところからスタートです。

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旧国道3号線、現在の太宰府市関屋の交差点には、鳥居と道標が残されています。関屋は、近世の主要街道の一つであった日田街道(博多~日田)からさいふ詣り(太宰府天満宮参詣)の道が分かれる箇所にあたります。かつては茶店が並び、高橋紹運の岩屋城合戦にちなんだ「関屋のつなぎだご」という名物も売られていたと言われ、潮斎(しおい)台や道標、常夜燈が置かれ、文久二(1863)年には、当時の福岡藩主だった黒田斉溥なりひろが鳥居を寄進しました。これは「さいふ詣り一の鳥居」とも言われています。
 道標は2基あり、1基は梅鉢紋を描き、「天満宮東従是二十五丁享和二年(1802年)」と彫られています。もう1基には、「是ヨリひがしさいふ参詣道」、裏に「元禄四年(1691年)辛未天寄進 福岡呉服町 帯当金宇兵衛」と彫られている。この元禄4年の道標は太宰府におけるもっとも古い道標であり、このころより、さいふ詣りが盛んであったことがわかります。
(太宰府市『大宰府市史民俗資料編』より)
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これが関屋の一の鳥居。
文久二(1863)年、当時の福岡藩主だった黒田斉溥なりひろが鳥居を寄進しました。これは「さいふ詣り一の鳥居」とも言われています。

常夜燈や潮斎(しおい)台、道標、が置かれていたそうです。
現在は、この場所に集められているみたいです。

道標。1基は享和二年(1802年)」と彫られています。

もう1基には、「是ヨリひがしさいふ参詣道」、裏に「元禄四年(1691年)辛未天寄進 福岡呉服町 帯当金宇兵衛」と彫られています。



刈萱の関跡。大宰府の警固のために置かれた関所の跡。室町時代の末まで残っていたが、戦国時代になって廃止されたそうです。
「苅萱道心と石童丸」伝説のゆかりの地としても有名だそうで、ボランティアの方の熱心な解説がありました。H26年3月に太宰府市民遺産に指定されたそうです。

3行の下にも文字が掘ってありますが写真では見えません。
この黒い文字も、ボランティアの方々が筆で色を着けていらっしゃる途中だそうです。

この辺りは、住所が坂本2丁目です。坂本小学校は水城小学校の前身で明治10年に出来たそうです。なんと、個人のお宅の庭に石碑があります。



この街道は重要な道だったので石橋がかかっていて、当時としては珍しかったので字名になったということです。

字石橋の十三仏堂。案内板も無く、民家の裏にあります。
虚空蔵菩薩亡くなった人を浄土に導く13人の仏様です。
初七日から33回忌まで、それぞれに担当が決まっています。


宝満山を隠すような山があったか無かったか、昔の武士が言い争いをして死んだ、との言い伝えがあり、以前は石碑があったそうです。

平成24年に国分で発見された7世紀の「戸籍・計帳関係木簡」が見つかった場所らしいです。
資料によると、マンション建設の発掘調査とあります。

                          「戸籍・計帳に関わる木簡」の出土地に説明板ができました。

                                                    国分寺跡碑

                                                            国分天満宮

                                            国分天満宮の万葉歌碑。

筑前国分寺跡


古代官道の位置を説明してもらいました。
文化ふれあい館で休憩をとり、関屋方面に戻り 御笠川の南側を散策します。
                                   青マーカーが、旧日田街道です。

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