おおやまざき散策!③ -- 山崎合戦古戦場 ・ 石清水八幡宮-- ― 2025-05-23
おおやまざき散策!(格安フェリーの旅)-- 天王山ハイキング・山崎合戦
今回は、京都沿革の歴史重要地点 山崎合戦と淀川三川合流部を散策に出掛けました。
「天下分け目の天王山」・ 山崎合戦古戦場碑 ・ 明智光秀本陣跡を目指しました。
「天下分け目の天王山」・ 山崎合戦古戦場碑 ・ 明智光秀本陣跡を目指しました。
おおやまざき散策!--③
JR山崎駅 → サントリー山崎蒸留所 → 離宮八幡宮 → 歴史資料館 → 天王山登山口
天王山登山口→ 宝積寺(ほうしゃくじ)→ 三川合流展望台 → 旗立松展望台→十七烈士の墓 → 酒解神社(さかとけ) → 天王山山頂 山崎城跡→ アサヒグループ大山崎山荘美術館
③ JR山崎駅 → 阪急大山崎 → 阪急西山天王山
→ 山崎合戦古戦場碑 (天王山夢ほたる公園) → 明智光秀本陣跡(境野1号墳)
→ 久貝(バス) 長岡京淀線90系統(バス) → 京阪淀駅 → 石清水八幡宮
阪急大山崎 から一駅、 阪急西山天王山へ
阪急西山天王山で下車。
ナビで、山崎合戦古戦場碑 (天王山夢ほたる公園)を検索すると、割と直線距離で案内が出たので南へ徒歩で向かう。
山崎合戦古戦場碑 (天王山夢ほたる公園) に到着。
(天王山夢ほたる公園)
何もない高架の下に、山崎合戦古戦場碑がポツンとありました。
古戦場碑とは離れた、公園の橋の方に設置されていました。
さらに、大山崎中学校とサントリーワイナリーの間を東へ向かうと明智光秀本陣跡です。
長岡京淀線90系統(バス) 久貝バス停から、 京阪淀駅へ向かう。
電車で一駅で石清水八幡宮駅です。
ケーブルカーだと約3分、徒歩だと約30〜40分かかる
【男山展望台】
石清水八が鎮座している場所は、木津川・宇治川・桂川の3つの川が
合流して淀川となる地点であり、京都と難波間の交通の要衝だったそうです
合流して淀川となる地点であり、京都と難波間の交通の要衝だったそうです
【石清水八幡宮】
南総門へ向かう参道
供御所にある竃神殿には大きな釜があります。
南総門
石清水八幡宮の八幡様は、京都の裏鬼門を守る守護神として
860年(平安時代前期)に大分県の宇佐神宮から勧請されました
860年(平安時代前期)に大分県の宇佐神宮から勧請されました
八幡造り御本殿
本殿は八幡造という建築様式で内殿と外殿という2つの棟が前後に並び、横から見ると屋根がM字型に見えることも大きな特徴。現存する八幡造では最古かつ最大規模で、貴重な社殿形式。
築地塀 通称「信長塀」ともいわれる社殿を囲む土塀
御本殿昇殿口
鬼門封じ 東北の角が切りとられている石垣
気比社、水若宮
若宮社
住吉社、一童社
校倉(あぜくら)(宝蔵)、江戸時代中期からある類例の少ない校倉建築で京都府指定文化財です。
楠木正成の楠 樹齢約700年の楠木正成奉納の大楠
左の神楽殿の角から、本殿内を覗ける空間があります。望遠で見ると・・
本殿の桧皮葺屋根の軒が接するところに織田信長寄進の「黄金の樋(とい)」が架けられている。
黄金の雨樋 天正8年織田信長寄進の雨樋(通常非公開)
中央チョイ下に横に走る雨樋が見えます。
八幡宮関係者の方に教えてもらいました。
永仁の石灯籠
三ノ鳥居
一ッ石 「勝負石」とも呼ばれる勝負必勝・勝運の石
表参道をくだり、二ノ鳥居 頓宮 一ノ鳥居へ 向かいます。
七曲がり
二ノ鳥居
頓宮
頓宮 年に一度重儀が斎行される社殿
一ノ鳥居 「八幡宮」の額が掛かる表参道入口の鳥居
扁額は一条天皇の勅願で藤原行成が書いた木製のものを後に、江戸時代
松花堂昭乗が書写したもので、八の字が向かい合う鳩となっています。
松花堂昭乗が書写したもので、八の字が向かい合う鳩となっています。
おおやまざき散策!② -- 天王山ハイキング・アサヒ大山崎山荘美術館 -- ― 2025-05-23
おおやまざき散策!(格安フェリーの旅)-- 天王山ハイキング・山崎合戦 -
今回は、京都沿革の歴史重要地点 山崎合戦と淀川三川合流部を散策に出掛けました。
「天下分け目の天王山」・ 山崎合戦古戦場碑 ・ 明智光秀本陣跡を目指しました。
「天下分け目の天王山」・ 山崎合戦古戦場碑 ・ 明智光秀本陣跡を目指しました。
おおやまざき散策! --②
JR山崎駅 → サントリー山崎蒸留所 → 離宮八幡宮 → 歴史資料館 → 天王山登山口
②天王山登山口→ 宝積寺(ほうしゃくじ) → 三川合流展望台 → 旗立松展望台
→ 十七烈士の墓 → 酒解神社(さかとけ) → 天王山山頂 山崎城跡
→ アサヒグループ大山崎山荘美術館
JR山崎駅 → 阪急大山崎 → 阪急西山天王山
→ 山崎合戦古戦場碑 (天王山夢ほたる公園) → 明智光秀本陣跡(境野1号墳)
→ 久貝(バス) 長岡京淀線90系統(バス) → 京阪淀駅 → 石清水八幡宮
JR山崎駅近くの天王山上り口 天王山登山口石標
【大念寺】
【宝積寺(ほうしゃくじ)】
宝積寺 山門。 阿吽の金剛力士像(重要文化財)
山崎合戦の後に秀吉が一夜で建立した三重塔は重要文化財に指定されています。
宝積寺(ほうしゃくじ)は、神亀元年724年、聖武天皇の勅願により行基によって開山され、
本堂に十一面観音を本尊に大黒天神も祀られております。
山崎の戦いの際に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が本陣を置いた寺でもあります。
山崎の戦いの際に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が本陣を置いた寺でもあります。
境内にある「秀吉 出世石」。
説明板によると山崎合戦の折、秀吉はここを陣所とし、この石に腰掛けた。
戦いに勝利し天下人への道を歩み始めたという言い伝え。
本堂向かって右手にある閻魔堂
宝積寺石造五重塔(鎌倉時代)
宝積寺を経て、登山道に入ります
天王山への山道入口は、本堂向かって右手にある閻魔堂の更に奥にあります。
天王山ハイキングコース 約4.8km のスタートです。
途中開けたところで、三川合流地点が見える
青木葉谷展望広場
陶板絵図② 「秀吉の中国大返し」 解説文は堺屋太一作
三川合流地点が見える青木葉谷展望広場の展望所
展望所の眼下には淀川が見えている。
梅田のビル群や大阪城も見えるというのだが、霞んでいて見えません。
山崎の合戦時に秀吉が軍旗をかかげた旗立松展望台
旗立松の奥には「山崎合戦之地」石碑がある。
しかし実際には山崎合戦は、ここ天王山上ではなく、その麓の地(小泉川沿い)で行われた。
旗立松の山頂側に展望台があり、そこから明智軍と秀吉軍が布陣していたとされる山崎の古戦場や三川合流地点が確認できます。
酒解神社 (さかとけじんじゃ) の一の鳥居
陶板絵図③「頼みの諸将来たらず」
陶板絵図④「天下分け目の天王山」
陶板絵図④「天下分け目の天王山」
禁門の変の首謀者の一人である真木和泉守以下17名が眠る墓です。幕末、尊王譲位の活動家であった和泉守は脱藩浪士を率いて山崎に軍を置きました。
陶板絵図⑤「明智光秀の最期」
自玉手祭来酒解神社(酒解神社)
神社の場所は天王山山頂より約百メートルほど下つたところに位置し、本殿の手前に建つ神輿庫は鎌倉時代の建築で日本にある板倉式倉庫としては最古の例であり、国の重要文化財に指定されています
神社の場所は天王山山頂より約百メートルほど下つたところに位置し、本殿の手前に建つ神輿庫は鎌倉時代の建築で日本にある板倉式倉庫としては最古の例であり、国の重要文化財に指定されています
本殿
左に天王山山頂へ向かいます。 右は小倉神社方面へ。
天王山山頂・山崎城跡
麓から歩くこと、1時間程度、270.4メートルの標高の高さにある山頂です。山頂は大きく広場のようになっており、土肌がみえています。かつて城が築かれており、その痕跡を発見できるところにあります。
麓から歩くこと、1時間程度、270.4メートルの標高の高さにある山頂です。山頂は大きく広場のようになっており、土肌がみえています。かつて城が築かれており、その痕跡を発見できるところにあります。
井戸の跡
陶板絵図⑥「秀吉の天下人への道…」
天王山山頂へ続く道の途中にある「竹林のこみち」かな?
下りの途中で、下の方に覗き見ることができました。
陶板絵図⑥「本能寺の変」
アサヒグループ山崎山荘美術館に向かう、トンネルの手前にあります。
アサヒグループ山崎山荘美術館に向かう、トンネルの手前にあります。
【アサヒグループ大山崎山荘美術館】を覗いて観ようと、トンネルを抜けて向かいます。
アサヒグループ大山崎山荘美術館は、大正から昭和初期にかけて加賀正太郎によって建築された「大山崎山荘」(登録有形文化財)を本館として、建築家・安藤忠雄設計による地中館(1995年竣工)、山手館(2012年竣工)とともに公開しています。
羽柴(豊臣)秀吉と明智光秀による山崎の戦いや、幕末の禁門の変で知られる天王山。
天王山は気軽に登ることができる標高約270メートルの山で、登山道は整備されているため気軽にハイキングを楽しむことができます。
当日も、5~6グループがハイキングを楽しんで天王山山頂・山崎城跡で昼食をとっておられました。気軽にと言っても70過ぎの前期高齢者にとってはかなりの休憩が必要でした。
10:00登山口~11:30天王山山頂、下りは半分くらいの時間でした。
山崎合戦と淀川三川合流部を思い描きながら楽しい時間でした。
天王山は気軽に登ることができる標高約270メートルの山で、登山道は整備されているため気軽にハイキングを楽しむことができます。
当日も、5~6グループがハイキングを楽しんで天王山山頂・山崎城跡で昼食をとっておられました。気軽にと言っても70過ぎの前期高齢者にとってはかなりの休憩が必要でした。
10:00登山口~11:30天王山山頂、下りは半分くらいの時間でした。
山崎合戦と淀川三川合流部を思い描きながら楽しい時間でした。
おおやまざき散策!① -- サントリー山崎蒸留所 離宮八幡宮-- ― 2025-05-23
昨年は、琵琶湖を望む
安土城 散策! (格安フェリーの旅)
近江八幡 散策! (格安フェリーの旅)
彦根 散策!(格安フェリーの旅)-- 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 ―
彦根 散策!(格安フェリーの旅)-- 彦根城 夢京橋キャッスルロード に訪れました。
今年は、京都沿革の歴史重要地点 山崎合戦と淀川三川合流部を散策に出掛けました。
「天下分け目の天王山」・ 山崎合戦古戦場碑 ・ 明智光秀本陣跡を目指しました。
安土城 散策! (格安フェリーの旅)
近江八幡 散策! (格安フェリーの旅)
彦根 散策!(格安フェリーの旅)-- 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 ―
彦根 散策!(格安フェリーの旅)-- 彦根城 夢京橋キャッスルロード に訪れました。
今年は、京都沿革の歴史重要地点 山崎合戦と淀川三川合流部を散策に出掛けました。
「天下分け目の天王山」・ 山崎合戦古戦場碑 ・ 明智光秀本陣跡を目指しました。
おおやまざき散策!(格安フェリーの旅)-- 天王山ハイキング・山崎合戦 --①
JR山崎駅 → サントリー山崎蒸留所 → 離宮八幡宮 → 歴史資料館 → 登山口
→ 宝積寺(ほうしゃくじ) → 三川合流展望台 → 旗立松展望台 → 十七烈士の墓 → 酒解神社(さかとけ) → 天王山山頂 山崎城跡 → アサヒグループ大山崎山荘美術館
JR山崎駅 → 阪急大山崎 → 阪急西山天王山
→ 山崎合戦古戦場碑 (天王山夢ほたる公園) → 明智光秀本陣跡(境野1号墳)
→ 久貝(バス) 長岡京淀線90系統(バス) → 京阪淀駅 → 石清水八幡宮
JR山崎駅 → サントリー山崎蒸留所 → 離宮八幡宮 → 歴史資料館 → 登山口
→ 宝積寺(ほうしゃくじ) → 三川合流展望台 → 旗立松展望台 → 十七烈士の墓 → 酒解神社(さかとけ) → 天王山山頂 山崎城跡 → アサヒグループ大山崎山荘美術館
JR山崎駅 → 阪急大山崎 → 阪急西山天王山
→ 山崎合戦古戦場碑 (天王山夢ほたる公園) → 明智光秀本陣跡(境野1号墳)
→ 久貝(バス) 長岡京淀線90系統(バス) → 京阪淀駅 → 石清水八幡宮
JR山崎駅。 (JR住吉→JR高槻→JR山崎)
デイリーヤマザキ方面へ向かいサントリー蒸留所を目指します
駅から細い道を抜けると、関大明神があり 大阪府島本町の標識が・・・
先ほどの標識を西から観ると、京都府大山崎町の標識・・・ 県境です。
西国街道の西を望むと、サントリー蒸留所が見えます。
杜の入り口
通路を進むと、ウイスキー館
離宮八幡宮 惣門
鳥居・中門
拝殿・本殿
離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)由緒
平安時代末頃より燈明用の荏胡麻油の生産が始まり鎌倉時代には油の製造販売を山崎の油商人が独占していました
離宮八幡宮 東門
大山崎町歴史資料館
天王山登山口への近道です
JRの踏切を渡ると、天王山登山口です
つぎは、天王山登山口から 天王山ハイキング 天王山山頂 山崎城跡を目指します
彦根 散策!(格安フェリーの旅)-- 彦根城 夢京橋キャッスルロード ― 2024-11-08
歴史小説を愛読する私にとって、戦国時代の変遷を舞台とする琵琶湖周辺は行きたいところがいっぱいです。
数年前に、大津から京都南禅寺まで疎水沿いを歩いて散策しました。
今年の5月は、近江八幡、安土城を散策しました。
今回は、彦根駅から 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 彦根城 夢京橋キャッスルロードを散策です。
数年前に、大津から京都南禅寺まで疎水沿いを歩いて散策しました。
今年の5月は、近江八幡、安土城を散策しました。
今回は、彦根駅から 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 彦根城 夢京橋キャッスルロードを散策です。
佐和山城跡 龍潭寺から徒歩で15分。彦根城が見えてきました。
二の丸、中堀の石垣
いろは松
佐和口に向かうお堀沿いにある松並木で、34本の松が残っています。井伊直孝によって植樹された当時は47本の松並木だったことから、いろは47文字になぞらえて「いろは松」と呼ばれるようになりました。
通行の妨げとなるのを防ぐため、地上に根が出ない種類の「土佐松」が高知県より移植されました。
佐和口に向かうお堀沿いにある松並木で、34本の松が残っています。井伊直孝によって植樹された当時は47本の松並木だったことから、いろは47文字になぞらえて「いろは松」と呼ばれるようになりました。
通行の妨げとなるのを防ぐため、地上に根が出ない種類の「土佐松」が高知県より移植されました。
佐和口多聞櫓
多聞櫓とは、長屋のような見た目が特徴で、細長い形状をした櫓のこと。佐和口に向かって左側に延びているのが、重要文化財の櫓です。もともとは右側の櫓と一体となっていましたが、明治時代に入ると門と一緒に解体されました。
多聞櫓とは、長屋のような見た目が特徴で、細長い形状をした櫓のこと。佐和口に向かって左側に延びているのが、重要文化財の櫓です。もともとは右側の櫓と一体となっていましたが、明治時代に入ると門と一緒に解体されました。
馬屋
佐和口多聞櫓近くにある建物です。21頭もの馬が収容可能で、常に十数頭の馬がつながれていました。近世城郭の城内に大規模な馬屋が残るのは、彦根城だけです。
佐和口多聞櫓近くにある建物です。21頭もの馬が収容可能で、常に十数頭の馬がつながれていました。近世城郭の城内に大規模な馬屋が残るのは、彦根城だけです。
表御門
彦根城には、大手門と表御門があります。
もともとは大坂城の方角にあたる南西に大手門が築かれ、
豊臣家が滅亡後、江戸城の方角にあたる表御門が実質の正面玄関になったらしい。
券売所 大人:1000円です
天秤櫓に向かって登ります。
天秤櫓・廊下橋
天秤櫓(てんびんやぐら)
大手門と表門の合流する要所に建てられた天秤櫓は、左右の櫓が別々の役割を果たすなど、防衛に優れていました。この形状の櫓は、国内では彦根城でしか見ることができません。天秤櫓の前には、尾根を削った大堀切があり、その上に廊下橋がかかっています。敵がこの橋に差し掛かった際、橋を壊すことによって、敵兵の侵入を防ごうとする仕組みでした。
大手門と表門の合流する要所に建てられた天秤櫓は、左右の櫓が別々の役割を果たすなど、防衛に優れていました。この形状の櫓は、国内では彦根城でしか見ることができません。天秤櫓の前には、尾根を削った大堀切があり、その上に廊下橋がかかっています。敵がこの橋に差し掛かった際、橋を壊すことによって、敵兵の侵入を防ごうとする仕組みでした。
廊下橋をくぐって直進すると、大手門に向かいます
廊下橋をくぐって、鐘の丸へ。 鐘の丸から廊下橋を渡って天秤櫓へ。
鐘の丸
鐘の丸から天秤櫓を望む
この櫓は、豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したといわれている、門を開けて上から観ると天秤のような形から天秤橋と呼ばれた。
左右の櫓の向きにご注目! よく見ると両隅の二階櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違い左右対称でなありません。右(東側)が江戸に、左(西側)が京の都に正面を向けた時代を反映した形で建てられている。
左右の櫓の向きにご注目! よく見ると両隅の二階櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違い左右対称でなありません。右(東側)が江戸に、左(西側)が京の都に正面を向けた時代を反映した形で建てられている。
天秤櫓の内部が公開されています。
時報鐘
場内の太鼓門近くにある時報鐘は、当初は南側の鐘の丸に設置されていたが、北側に音が届かないという理由で現在の場所に移されたそうです。
場内の太鼓門近くにある時報鐘は、当初は南側の鐘の丸に設置されていたが、北側に音が届かないという理由で現在の場所に移されたそうです。
太鼓門櫓
天守を防御する最後の門であった太鼓櫓門。東側の背面部分には壁がなく、高欄の付いた廊下となっており、この構造は大変貴重です。城内合図を送るための太鼓が置かれていたことが、名前の由来だと言われています。
太鼓門櫓は、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしています。 登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。
天守を防御する最後の門であった太鼓櫓門。東側の背面部分には壁がなく、高欄の付いた廊下となっており、この構造は大変貴重です。城内合図を送るための太鼓が置かれていたことが、名前の由来だと言われています。
太鼓門櫓は、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしています。 登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。
太鼓門櫓も、天守や天秤櫓、西の丸三重櫓などと同様に、築城時にほかの場所から移築された建物です。
天守を防御する最後の門、太鼓櫓門をくぐると、いよいよ天守のある本丸です!
沢山の人だかりが! ひこにゃんのショーが行われていました。
国宝 彦根城天守、附櫓及び多聞櫓
天守は3階3重の屋根で構成されています。屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど)」、3階には高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。完全に装飾化した廻縁と高欄で、入母屋(いりもや)破風があるため、廻ることが出来ませんし、幅も狭く、床面より高いため外へ出ることはできません。
天守の載る石垣は「牛蒡積み」(ごぼうづみ)と呼ばれ、自然石を使用した、堅固な石垣です。
天守は3階3重の屋根で構成されています。屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど)」、3階には高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。完全に装飾化した廻縁と高欄で、入母屋(いりもや)破風があるため、廻ることが出来ませんし、幅も狭く、床面より高いため外へ出ることはできません。
天守の載る石垣は「牛蒡積み」(ごぼうづみ)と呼ばれ、自然石を使用した、堅固な石垣です。
天守は大津城、「佐和口多聞櫓」(さわぐちたもんやぐら)は佐和山城、「天秤櫓」は「長浜城」から移築されたと言われています。
昭和27年(1952年)に国宝に指定。
彦根城以外の国宝天守は、姫路城・松本城・犬山城・松江城だけです。
彦根城以外の国宝天守は、姫路城・松本城・犬山城・松江城だけです。
公開されている彦根城国宝天守の内部へ。
国宝天守耐震対策工事の為、天主二層・三層は観覧できましたが天守一層は観覧できませんでした。
入口を入るとすぐ、黒鉄の扉が・・
急な階段を登り、3階へ。
廻縁と高欄がありますが、床面より高いため外へ出ることはできません。
天守から琵琶湖方面を望む
ちょっと怖いくらいの急な下り。
着見台(つきみだい)― 着見櫓跡
本丸の東端に突き出した着見台、石段を登ると、佐和山城跡、彦根城下と琵琶湖まで一望できる。
本丸の東端に突き出した着見台、石段を登ると、佐和山城跡、彦根城下と琵琶湖まで一望できる。
着見台から、西の丸の石垣を望む
着見台から、佐和山城跡、彦根城下を望む。
着見台から、天主を望む。
本丸の西側に位置する「西の丸」。
西の丸三重櫓
本丸の西側に位置する「西の丸」。その西北に位置する櫓です。三重櫓には、東側と西側に続櫓(つづきやぐら)が連なっています。天守のように装飾的な破風(はふ)などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗りとし簡素な中にも気品のある櫓です。 裏手から侵入する敵に備える要所となっていました。
東側の続櫓ごしに観る佐和山城跡
西の丸から、観音台を望む。
西の丸から、黒門に向かう石段、黒門山道を望む。
黒門山道から望む天主
井戸曲輪跡
本丸から黒門へ向かう坂道の途中に設けられた小曲輪。
石組み溝で集めた雨水を浄化して貯水するタイプの井戸があったらしい。
本丸から黒門へ向かう坂道の途中に設けられた小曲輪。
石組み溝で集めた雨水を浄化して貯水するタイプの井戸があったらしい。
黒門を内堀側から望む。
彦根藩第13代藩主 井伊直弼生誕地・・・工事中でした。
表御門まえの中堀を屋形船がゆっくりと・・・
大手門
大坂城の方角にあたる南西に築かれた大手門
西郷屋敷長屋門
京橋口門と雁木
京橋口門
京橋から中堀を望む。
彦根城の京橋口門から京橋を渡ると、「夢京橋キャッスルロード」があります。夢京橋キャッスルロードは、江戸時代の城下町を再現した、飲食店や土産物屋が並ぶスポットです。
湖国バス、四番町スクエアバス停よりJR彦根駅まで移動です。
JR彦根駅西口まえの、井伊直政公之像。
16:22発 新快速でJR住吉駅へ、セブンでつまみを仕入れてフェリーへ向かいます。

彦根 散策!(格安フェリーの旅)-- 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 ― 2024-11-08
歴史小説を愛読する私にとって、戦国時代の変遷を舞台とする琵琶湖周辺は行きたいところがいっぱいです。
数年前に、大津から京都南禅寺まで疎水沿いを歩いて散策しました。
今年の5月は、近江八幡、安土城を散策しました。
今回は、彦根駅から 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 彦根城 夢京橋キャッスルロードを散策です。
数年前に、大津から京都南禅寺まで疎水沿いを歩いて散策しました。
今年の5月は、近江八幡、安土城を散策しました。
今回は、彦根駅から 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 彦根城 夢京橋キャッスルロードを散策です。
旅の準備で、佐和山城跡までの徒歩を検索するとJR東海道線の西側・東側2つのルートが出てきました。
みぎのルートを選択し、彦根駅東口から北東へ
彦根駅東口から北東へ進みR8付近でGoogleMapで検索するとなんと図左のルートが表示されます。一瞬戸惑いましたが、決めたルートを地図観ながら探しました。
R8の交差点に案内板がありました。
横断歩道を渡り、北へ。近江鉄道の踏切近くまで進んで散歩中の方に尋ねました。
ガード下に、こんな案内板を見つけました。
車の先を左に入って川沿いに右に進め!みたいです。(下図参照)
河川の散歩道みたいな処をひたすらまっすぐ進むと清凉寺に着きました。
【 清凉寺 】
井伊家の菩提寺として、また父井伊直政の墓所として直孝が開基した曹洞宗永平寺派の寺院。
本堂裏の高台には歴代藩主の宝篋印塔がある。
寺地が石田三成の名家老といわれた島左近の屋敷跡で、関ケ原の戦いの戦没者の供養も兼ねているそうです。
本堂裏の高台には歴代藩主の宝篋印塔がある。
寺地が石田三成の名家老といわれた島左近の屋敷跡で、関ケ原の戦いの戦没者の供養も兼ねているそうです。
本堂裏の高台には歴代藩主の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
野生の猿がたくさん遊んでいました。
【 龍潭寺 】
井伊氏の始祖、藤原共保(ともやす)以来の井伊家の菩提寺で、奈良時代行基によって遠江国(現静岡県)井伊谷に開基された、臨済宗妙心寺派の寺院です。
井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天(こうてん)が佐和山(232.5m)山麓に移築しました。
井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天(こうてん)が佐和山(232.5m)山麓に移築しました。
石田三成の銅像
龍潭寺 山門
山門の左入り口の柱に小さな案内が・・・
龍潭寺玄関
七福神
観音堂
佐和山城跡をめざす、ハイキングコースのスタートです
入口にあった、ハイキングコースの案内板
佐和山城
関ヶ原の合戦(1600年)で、西軍を率いた石田三成の居城。
関ヶ原の合戦(1600年)で、西軍を率いた石田三成の居城。
信長・秀吉の時代にも、佐和山城は近江の要衝を守る城として重視されました。江北と江南の「境目の城」として城が造られ、浅井長政時代には磯野員昌が、織田信長時代には丹羽長秀が、羽柴秀吉時代には堀尾吉春、石田三成といった重臣が城主となっています。1600(慶長5)年の関ケ原合戦後は、徳川四天王の一人、井伊直政が城主となりますが、1604(慶長9)年の彦根城着工に伴い、佐和山城は廃城となります。
関ヶ原の合戦で敗れ“大一大万大吉”の理想まであと一歩届きませんでした。代わってこの地の領主となった井伊家は、佐和山城を破城しました。この際、石垣や建材の一部は彦根城へと運ばれ、築城の材料として使用されました。
切通し -- 古絵図に「かもう坂通り往還」と記されている切通しです。
東山道と琵琶湖岸の松原をつなぐ道として、旅人や牛馬が往来したという。
東山道と琵琶湖岸の松原をつなぐ道として、旅人や牛馬が往来したという。
西の丸 塩硝櫓跡
やっと本丸跡がみえてきました。
本丸跡
左に荒神山、中央に彦根城、奥は琵琶湖が望める。
彦根城の天守が望める。
佐和山 三角点 標高233m
隅石垣
2段に積まれた本丸跡の石垣
南側の登口の方へ急坂を下ると千貫井戸の看板があります。
大雨などのの影響か樹々が倒れ井戸の屋根や囲いはすっかり潰れてしまっています。
千貫井戸から本丸跡へ戻り、龍潭寺へ下山します。
何度か滑りながらも無事下山。途中何度か野生のお猿さんに遭遇しました。
JR彦根駅から 龍潭寺までが20分ほど、
龍潭寺 観音堂から 佐和山城天主台跡まで25分ほど
下山は、 15分~20分ほど
徒歩で彦根城へ向かいます。
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