備中松山城 天守 - 岡山県高梁市内山下 ― 2022-11-16
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標高430mの臥牛山頂上付近に建つ天守は、国の重要文化財です。
現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。
臥牛山の大きな自然の岩と人工的な石垣とがうまく組み合わされて、お城が築かれています。
鎌倉時代、有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭重信が大松山に城を築いたのを起源とし、1683(天和三)年に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になりました。
現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。
臥牛山の大きな自然の岩と人工的な石垣とがうまく組み合わされて、お城が築かれています。
鎌倉時代、有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭重信が大松山に城を築いたのを起源とし、1683(天和三)年に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になりました。
二層二階の典型的な山城だが、三層に見える様にデザインされています。
篭城戦を想定し、囲炉裏や装束の間が設けられており、二階には御社壇(神棚)があるのが特徴です。
篭城戦を想定し、囲炉裏や装束の間が設けられており、二階には御社壇(神棚)があるのが特徴です。
天守 入口です。 左の紅葉の櫓跡が 八の平櫓跡です。
接続廊下(つなぎろうか)・・
1階ではなく、本丸手前にあった 八の平櫓とつなぐ廊下である。
石落とし
囲炉裡・・天守の中に囲炉裡があるのは珍しい
武者窓(連子窓)
狭間 外側はなるべく小さく、内側を広くして見える範囲を広くする工夫が・・
「昭和15年(1940)に皇紀2600年の記念事業として松山城を修築した主なる修築関係者を記し後世に伝う」とあります。
装束の間 - 籠城時の城主一家の居室床下に石を入れ隙間のないようにし、
忍びの者でも侵入できないように工夫されている。
装束の間 内部
天守より、二重櫓を望む。
天守 二階
御社壇(神棚)
天守より本丸を望む。
修復の跡
接続廊下(つなぎろうか)
三層に見えるのはこのせいですね!
八の櫓跡 ・・ 天守入口に向かう階段を登った所です。
八の櫓跡の紅葉
備中松山城(高梁城) - 岡山県高梁市内山下 ― 2022-11-16
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倉敷から岡山へ向かいます。
現存天守を持つ山城 備中松山城 を目指します。
現存天守を持つ山城 備中松山城 を目指します。
日本100名城の一つ。現存天守12城の一つでもあり、この中で唯一の山城です。
備中松山城では、天守と二重櫓の2棟の建物と三の平櫓東土塀の1基の土塀が国の重要文化財に指定されています。
賀陽ICから高梁へ向かう途中のループ橋当たりで、雲海らしきものを発見。
時間はAM 9:00、この時間で雲が残っているのにびっくりです。
時間はAM 9:00、この時間で雲が残っているのにびっくりです。
城見橋公園到着
城まちステーション(備中松山城 登城整理バスのりば)
(シャトルバス)城見橋駐車場(5合目)~ふいご峠(8合目) 登城整理料 大人500円
ふいご峠到着
備中松山城の御社壇に納められた三振の宝剣をこの場所で作らせ、その為に大きな「ふいご」が設置されていたことから、この名前がついたそうです。
ふいご峠から天守までが徒歩で約20~25分、700m、攻めます。
中太鼓の丸跡石垣
御根小屋と天守との伝達手段として使われた太鼓の丸。下太鼓の丸と中太鼓の丸の二つの中継地点をもうけ、太鼓の合図で連絡を取り合っていたそうです。
大手門跡・三の丸・厩曲輪石垣と土塀
ここの石垣は圧巻です。
天然の岩盤の上に石垣を築き、更に土塀を建てる。山城の魅力です。
三の平櫓東土塀 一部が国の重要文化財に指定されています。
三の丸 と 厩曲輪石垣
三の平櫓跡
黒門跡、右に厩曲輪(うまやぐるわ)
黒門跡付近の紅葉
黒門跡
四の平櫓跡
二の丸石垣 最も古い石垣
二の丸石垣の野面積(のづらづみ)を見ながら 、二の丸へ
さんじゅーろー石製ベンチ
二の丸跡から、復元された本丸南御門、五の平櫓の向こうに天守が姿を現す。
現存12天守のひとつである備中松山城の天守が構える。
本丸東御門
本丸石垣、土塀を見ながら、二重櫓へ
天守の北側、二重櫓
高梁の街を見下ろしながら、ふいご峠まで歩きます。
大阪城を攻略!(桜門から本丸・大阪城天守へ) ― 2022-09-30
阪九フェリーの「思い立ったら関西周遊の旅」
フェリーで2泊3日の旅、1日がたっぷり使えます。
往復、9,900円 食事券 1,000円分付!
JRで大阪城公園駅のコインロッカーに荷物を預けスタート。
フェリーで2泊3日の旅、1日がたっぷり使えます。
往復、9,900円 食事券 1,000円分付!
JRで大阪城公園駅のコインロッカーに荷物を預けスタート。
玉造口 - 一番櫓 - 豊国神社 - 六番櫓 - 太鼓櫓跡(南仕切門跡)-大手枡形と多聞櫓-大手門
いよいよ本丸天守へ向かいます。
【 桜門 】
本丸への正門として造られた桜門は、天守閣の真南にあります
【巨石・蛸石】
桜門枡形と巨石・蛸石
本丸より天守を望む
ミライザ大阪城
イベントの旗を避けて、ミライザの前から・・
天守の入り口、チケット売場
8階の展望台からの眺めも必見! 大阪城公園と大阪の街を一望できます。
展望台北側より「青屋門」を望む
展望台北側より「極楽橋」を望む
展望台南側より鯱、本丸を望む
大阪城の「残念石」
極楽橋と天守
御座船(和船)の乗り場から
内堀北西より天守を望む
大阪城西の丸庭園 大阪迎賓館の入り口でもあるようで、
利用者は「京橋口」から車で乗り入れられるようです。
肥後石(畳33畳敷)
京橋口二番石(畳22畳敷)
大阪城の北西側の出入り口、京橋口、正面に巨大な肥後石
西外堀より乾櫓を望む
北外堀より伏見櫓跡を望む
青屋門
青屋門を内堀側から
大阪城ホールの横を抜けて、JR大阪城公園駅に向かいました。
大阪城を攻略!(二の丸、玉造口-豊国神社-大手門) ― 2022-09-30
阪九フェリーの「思い立ったら関西周遊の旅」
フェリーで2泊3日の旅、1日がたっぷり使えます。
往復、9,900円 食事券 1,000円分付!
JRで大阪城公園駅へ(8:40着)、コインロッカーに荷物を預けスタート。
TULLY'S COFFEEでモーニング、順路を確認。
太陽の広場より天守を望む
広場を東へ歩けば、天守閣が木々の上に顔を出す。
広場を東へ歩けば、天守閣が木々の上に顔を出す。
記念樹の森を抜けて、東外堀へ
階段を抜けると、玉造口に向かう、算用曲輪(杉山)
南外堀沿いに玉造口へ
・・・その前に、南外堀から一番櫓を一枚・・・
南外堀
南外堀より一番櫓を望む
【玉造口】
玉造口を入ってすぐ左側の石段(雁木)
雁木を上まで登ると絶景が・・・
【蓮如上人袈裟懸けの松】
蓮如六字名号碑
内堀の石垣
・・・二の丸に入り、先ずは一番蔵へ・・・
【一番櫓】
南外堀に面して二の丸南面隅櫓7棟のうち一番東に位置しているので一番櫓だそうです
【豊国神社】 明治時代には中の島に鎮座していましたが、現在は大阪城内に
本願寺推定地、 奥は六番櫓
【六番櫓】
南外堀より六番櫓を望む
【大手門】 大手土橋、大手門より本丸に向かいます
千貫櫓、多聞櫓、大手門
大手門
大手枡形と多聞櫓
市多聞跡
大手口桝形の巨石
【多聞櫓】
二の丸への出入り口となる大門を組み込んだ構造が特徴の多門櫓は、重厚な梁と柱が圧巻の迫力です
千貫櫓
大手門を北から防御する重要な役割を果たした二層の隅櫓(すみやぐら)
空堀と本丸へ向かう南門の入口
大阪城天守閣や本丸へ向かう南門の入口、丁度「豊国神社」の向かい側に重要文化財「桜門」
大阪城の本丸に向かいます。
岩屋城跡 ― 福岡県太宰府市観世音寺 ― 2022-06-03
岩屋城は、四王寺山の中腹に築かれていた山城です。戦国時代の大友宗麟の家臣高橋紹運は、立花道雪らとともに斜陽の大友家を支え、1586(天正14)年、九州制覇を目指す島津氏4万の大軍に対して、岩屋城城主としてわずか700余名で籠城。援軍として豊臣秀吉の軍が九州に上陸するまでの時間を稼ぐため、最後の一兵まで苛烈に戦い抜き、紹運以下家臣全員が玉砕したと伝わります。
本丸跡からは太宰府の街並みを一望できる絶好のビューポイントとなっています。また、道路を挟んで山道を下ると、当時の二の丸付近に紹運の墓があります。(太宰府市観光推進課HPより)
本丸跡からは太宰府の街並みを一望できる絶好のビューポイントとなっています。また、道路を挟んで山道を下ると、当時の二の丸付近に紹運の墓があります。(太宰府市観光推進課HPより)
本丸跡から太宰府の街並みを望む。 左方向に九国博の屋根が見えます。
子孫によって建立された「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑
高橋紹運と勇士の墓へ向かいます
本丸跡から、道路を挟んで山道を下ります。
本丸の南西下にある高橋紹運と勇士の墓がある部分が二ノ丸とされる。
高橋紹運の墓(右)と岩屋城の戦いの戦没者慰霊碑(左奥)
「高橋紹運」(たかはし・じょううん)について少し・・
豊後大友家の重臣であり、立花道雪の盟友であり、猛将立花宗茂の実父です。
(名前が変わったり、養子にいったりややこしいですね。)
戦国時代の豊後大友家の重臣
【豊後三老】
立花道雪 、元々は戸次鑑連(道雪)
臼杵鑑速(あきすみ)
吉弘鑑理(あきただ)、子(高橋 紹運)、孫(立花 宗茂)
立花道雪より、高橋紹運の長男の高橋統虎を養子に請われたが、紹運も高橋統虎の資質に期待して最初は拒絶するも、
"道雪殿と父が争うことになったならこの太刀で父を討て"
と言って一振りの脇差と共に高橋統虎を養子に出した。との話が有名ですね。
高橋統虎こそ、猛将立花宗茂です。(戸次道雪の娘、誾千代の婿養子となり立花山城主に。)
豊後大友家の重臣であり、立花道雪の盟友であり、猛将立花宗茂の実父です。
(名前が変わったり、養子にいったりややこしいですね。)
戦国時代の豊後大友家の重臣
【豊後三老】
立花道雪 、元々は戸次鑑連(道雪)
臼杵鑑速(あきすみ)
吉弘鑑理(あきただ)、子(高橋 紹運)、孫(立花 宗茂)
立花道雪より、高橋紹運の長男の高橋統虎を養子に請われたが、紹運も高橋統虎の資質に期待して最初は拒絶するも、
"道雪殿と父が争うことになったならこの太刀で父を討て"
と言って一振りの脇差と共に高橋統虎を養子に出した。との話が有名ですね。
高橋統虎こそ、猛将立花宗茂です。(戸次道雪の娘、誾千代の婿養子となり立花山城主に。)






































































































































































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