秋月散策 葉室麟の秋月藩シリーズを読んで・・・ ― 2025-10-23
葉室麟の秋月藩シリーズ
『秋月記』(2009年)、 『蒼天見ゆ』(2015年) を読んで、改めて秋月藩に興味がわき
『秋月記』(2009年)、 『蒼天見ゆ』(2015年) を読んで、改めて秋月藩に興味がわき
 ゆっくり散策しました。
だんごあん、蕎麦のちきた 辺りから散策開始です。
先ずは、上の地図にある旧八丁道入口付近にある「恵観院」を探します。
どう探してもわからないので、畑で作業中の方に尋ねました。
      ここが、旧八丁道入口です。  ここを登ると"だんごあん"に出ます。
        草に埋もれた案内板を見つけました。
            秋月街道(旧八丁越) 恵観院 入口
       恵観院   ここは日照院の末寺らしいです
         R322から、秋月街道へ
        正面が、R322沿いにある 白山下宮神社です。
【白山下宮神社】
                            残念ながら本堂は工事中でした。
                 社殿脇には、秋葉神社、稲荷神社、産八幡宮の石祠があります。
白山宮は上宮下宮があります。
上宮は古処山頂に並ぶ三個の大岩を神体として祀られています。
ここの下宮は、秋月黒田初代藩主長興(ながおき)公によって武運長久と住民の安泰を願って、古処山普明院円福寺を寛永二年(1625年)に興された歴史あるお宮です。
(境内掲示板より)
古処山:標高859m 白い石灰岩が山頂を覆っているので、別名「白山」と呼ばれています。
上宮は古処山頂に並ぶ三個の大岩を神体として祀られています。
ここの下宮は、秋月黒田初代藩主長興(ながおき)公によって武運長久と住民の安泰を願って、古処山普明院円福寺を寛永二年(1625年)に興された歴史あるお宮です。
(境内掲示板より)
古処山:標高859m 白い石灰岩が山頂を覆っているので、別名「白山」と呼ばれています。
         野鳥川沿いの秋月街道を秋月方面へ
  「野鳥口番所跡」 城下の入口に番所が設けられ、この場所は城下東の出入り口だった
       石垣の上の武家屋敷は歌人松田常憲の生家と説明されている
       御影石造りの橋が架かっており、「番所橋」と呼ばれています
町営駐車場で休憩! 次は、長生寺に向かいます。
【医王山 長生寺】
         石段の上には長生寺の山門
   本堂  開山の興膳善入という人物は大変長寿で、寺号はその長命にあやかったもの
         種痘の技術を確立した秋月藩医「緒方春朔」の墓があります
「緒方家之墓(中央)」、「種痘創始者 贈正五位緒方春朔(右)」。
「緒方家之墓(中央)」、「種痘創始者 贈正五位緒方春朔(右)」。
【大涼寺】
          初代藩主長興の生母、大涼院の菩提寺
大涼院 は保科正直の娘で栄姫といい、徳川家康の姪になる人です。 保科正直は甲斐武田氏に仕え、1582年、武田氏が滅亡すると徳川家康の家臣となり、下総国二万五千石を領しました。
その後、大涼院 (だいりょういん)は母の異父兄徳川家康の養女となって黒田長政に嫁ぎ、忠之、長興(ながおき)ら3男2女をもうけました。
大涼院 の長男である忠之は福岡黒田の跡継ぎになり、三男の長興(ながおき)が秋月藩5万石を支藩として譲り受け 初代の藩主になりました。
その後、大涼院 (だいりょういん)は母の異父兄徳川家康の養女となって黒田長政に嫁ぎ、忠之、長興(ながおき)ら3男2女をもうけました。
大涼院 の長男である忠之は福岡黒田の跡継ぎになり、三男の長興(ながおき)が秋月藩5万石を支藩として譲り受け 初代の藩主になりました。
         裏山に巨石を使用した大涼院の墓碑が立っている
【浄覚寺】
浄覚寺は秋月藩祖黒田長興公の家臣渡辺長左右衛門繁成が1641年に京都本願寺に願い出て開祖した末寺です
【古心寺】
秋月藩初代藩主長興が父長政の菩提寺として天保4年(1647)に建立
 古心寺は秋月藩初代藩主「黒田長興」が、父で黒田52万石の初代藩主であった「黒田長政」の菩提を弔うため正保4年(1647年)に建立した寺です。 
境内の奥の一角に秋月黒田家十二代までの藩主、正室、側室、子女達の墓が並んでいます。
         秋月藩黒田家歴代の墓
         秋月藩初代藩主黒田長興公の墓
         秋月藩八代藩主黒田長舒公の墓
日本最後の仇討ちを果たした「臼井六郎」の墓が古心寺境内にあります。
          臼井六郎、臼井亘理(簡堂)、清子の墓
日本最後の仇討をテーマにした小説 葉室麟「蒼天見ゆ」
西洋式兵術の導入を進めていた秋月藩執政・臼井亘理は、ある夜、尊攘派により妻もろとも斬殺された。だが藩の裁きは臼井家に対し徹底して冷酷なものだった。
息子の六郎は復讐を固く誓うが、明治に入り発布された<仇討禁止令>により、武士の世では美風とされた仇討ちが禁じられてしまう。幕末から明治へ激変する社会の狭間で親の仇を討ち警察に出頭する武士の姿、信念を貫いた“最後の武士”の生き様が胸に迫る
息子の六郎は復讐を固く誓うが、明治に入り発布された<仇討禁止令>により、武士の世では美風とされた仇討ちが禁じられてしまう。幕末から明治へ激変する社会の狭間で親の仇を討ち警察に出頭する武士の姿、信念を貫いた“最後の武士”の生き様が胸に迫る
        古心禅寺から、腹切り岩、鳴門観音へ向けて歩きます。
【腹切り岩】
3個並ぶ大岩のうち、北側のものを「腹切岩」と呼ぶそうです。
天正15年(1587)、秋月種実の家臣恵利暢尭(えりのぶたか)がこの岩の上で、妻子を刺して、自ら腹をかき切って死んだ為、そう呼ばれるようになったそうです。
天正15年(1587)、秋月種実の家臣恵利暢尭(えりのぶたか)がこの岩の上で、妻子を刺して、自ら腹をかき切って死んだ為、そう呼ばれるようになったそうです。
【鳴門観音堂】
「鳴渡の観音(鳴渡山音声寺おんじょうじ)」とあります。
初代秋月藩主黒田長興公が、「腹切岩」の恵利暢尭(えりのぶたか)の殉忠に感激し、墓石の上にお堂を建て観音像を祀ったものとあります。
初代秋月藩主黒田長興公が、「腹切岩」の恵利暢尭(えりのぶたか)の殉忠に感激し、墓石の上にお堂を建て観音像を祀ったものとあります。
        秋月種時(たねとき)の墓、キリシタン橋 の案内板です。
鳴渡谷の奥には秋月種時(たねとき)の墓がある。歴代当主の中で唯一秋月に残る墓である。その一帯が秋月家の菩提寺である大龍寺の跡地といわれている。
天正一五年(一五八七)豊臣秀吉の九州征伐により、秋月種実(たねざね)・種長(たねなが)は、日向財部(ひゅうがたからべ)(宮崎県高鍋町)に移封された。この時、大龍寺も秋月氏と共に財部へ移っていった。
天正一五年(一五八七)豊臣秀吉の九州征伐により、秋月種実(たねざね)・種長(たねなが)は、日向財部(ひゅうがたからべ)(宮崎県高鍋町)に移封された。この時、大龍寺も秋月氏と共に財部へ移っていった。
【キリシタン橋】
花崗岩の一枚岩です
石橋の裏にマリア像があるといわれているが、今は見えないと書かれている。
「この上にはキリシタン畑というキリシタン関連の伝承が残る場所がある。秋月にキリスト教が伝わるのは、元亀元年(1570)。最盛時には2千人以上の信者がいたという。慶長12年(1607)に建てられた天主堂は、この伝承の地にあったのかもしれない。」
以前あった案内板より
石橋の裏にマリア像があるといわれているが、今は見えないと書かれている。
「この上にはキリシタン畑というキリシタン関連の伝承が残る場所がある。秋月にキリスト教が伝わるのは、元亀元年(1570)。最盛時には2千人以上の信者がいたという。慶長12年(1607)に建てられた天主堂は、この伝承の地にあったのかもしれない。」
以前あった案内板より
        キリシタン橋を過ぎて更に奥へ進む
        鬱蒼とした杉林の中、R322の橋の下を歩き進む
【秋月種時の墓】
ここは秋月山大龍寺の跡ということだが、遺構は全く残っておらず、お墓だけが立っています。
秋月種時~種実、種長までの17代385年に及ぶ秋月時代のなかで、秋月に残る唯一の当主の墓といわれています。
 秋月氏は種雄を初代として、鎌倉時代の初めから400年近く、秋月の古処山城を拠城として、朝倉地方を領有支配した武家です。
その16代・秋月種実は、少年期には毛利元就に庇護されるなど苦労をしましたが、成長してからは北九州の有力な戦国大名として活躍しました。
しかし晩年は、豊臣秀吉の命令によって日向国高鍋の地に移封されるという波瀾の生涯をおくった人物です。
天正15年(1587年)5月、島津義久が降伏して豊臣秀吉の九州平定は完了しました。秀吉は博多に戻って市街の復興を命じるとともに九州諸大名の知行割を決めましたが、この中で秋月種長は筑前、筑後、豊前の領地を没収されて、日向国財部(高鍋)に500町(3万石)を頂戴して移封(領地替え)を命じられました。
(朝倉市HPより)
その16代・秋月種実は、少年期には毛利元就に庇護されるなど苦労をしましたが、成長してからは北九州の有力な戦国大名として活躍しました。
しかし晩年は、豊臣秀吉の命令によって日向国高鍋の地に移封されるという波瀾の生涯をおくった人物です。
天正15年(1587年)5月、島津義久が降伏して豊臣秀吉の九州平定は完了しました。秀吉は博多に戻って市街の復興を命じるとともに九州諸大名の知行割を決めましたが、この中で秋月種長は筑前、筑後、豊前の領地を没収されて、日向国財部(高鍋)に500町(3万石)を頂戴して移封(領地替え)を命じられました。
(朝倉市HPより)
         大涼寺入り口付近まで下ってきました。
秋月藩は、福岡藩の支藩で、元和9年(1623年)黒田長政の三男長興が福岡藩52万石から5万石を分知され、立藩しました。
秋月家高鍋へ移封
1582年本能寺の変で 明智光秀、織田信長を殺害
豊臣秀吉は全国統一を目指し九州へ進攻
1586年 一方全国制覇を目指す薩摩軍は北上し、太宰府の岩屋城を秋月藩と攻め落とし新宮の立花城まで進攻するも南下してきた秀吉軍に敗北。
秋月藩の家臣恵利内蔵助暢尭(えりくらのすけのぶたか)は広島まで秀吉の陣容を偵察に行きそのあまりの偉大さを目の当たりにして秋月藩主の種実に秀吉との和議を進言するも「恐れをなしてそういう戯言をいう」と聞き入れられず、身の潔白を示すため切腹(後述 腹切り岩)。
1587 年 秀吉により秋月家は日向高鍋へ36万石から3万石で移封
1600年 関ケ原の戦い後黒田官兵衛の末弟直之が秋月を治め
1623年 黒田長政の三男長興が秋月藩初代藩主となる。
上杉鷹山は秋月の出身
上杉鷹山は米沢藩の藩政改革を成し遂げケネディ元大統領により日本で有名になった人物。
父は日向高鍋6代藩主秋月種美、母は筑前秋月4代藩主黒田長貞の娘春姫の次男として誕生。母方の祖母の豊姫が米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘である。
これが縁で10才で米沢藩の8代藩主重定の養子となる。
(秋月の観光案内 福岡の小京都より)
1582年本能寺の変で 明智光秀、織田信長を殺害
豊臣秀吉は全国統一を目指し九州へ進攻
1586年 一方全国制覇を目指す薩摩軍は北上し、太宰府の岩屋城を秋月藩と攻め落とし新宮の立花城まで進攻するも南下してきた秀吉軍に敗北。
秋月藩の家臣恵利内蔵助暢尭(えりくらのすけのぶたか)は広島まで秀吉の陣容を偵察に行きそのあまりの偉大さを目の当たりにして秋月藩主の種実に秀吉との和議を進言するも「恐れをなしてそういう戯言をいう」と聞き入れられず、身の潔白を示すため切腹(後述 腹切り岩)。
1587 年 秀吉により秋月家は日向高鍋へ36万石から3万石で移封
1600年 関ケ原の戦い後黒田官兵衛の末弟直之が秋月を治め
1623年 黒田長政の三男長興が秋月藩初代藩主となる。
上杉鷹山は秋月の出身
上杉鷹山は米沢藩の藩政改革を成し遂げケネディ元大統領により日本で有名になった人物。
父は日向高鍋6代藩主秋月種美、母は筑前秋月4代藩主黒田長貞の娘春姫の次男として誕生。母方の祖母の豊姫が米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘である。
これが縁で10才で米沢藩の8代藩主重定の養子となる。
(秋月の観光案内 福岡の小京都より)
秋月藩中興の祖 「黒田 長舒」(ながのぶ)
黒田長舒は、明和2年(1765年)日向高鍋藩7代藩主種茂の二男(幸三郎)として生まれましたが、天明5年(1785年)21歳のとき、秋月藩8代藩主として迎えられました。長舒は叔父の上杉鷹山をはじめ、先祖に上杉謙信・秋月種実・黒田如水・吉良上野介・妻方に山内一豊等多彩な血筋を持ち後に秋月藩中興の祖と讃えられました。
秋月藩は、天明4年(1784年)7代藩主黒田長堅が嗣子がないまま、18歳で若死にし、断絶の危機を迎えました。秋月藩のこの事態に、福岡藩は秋月藩廃絶を画策しましたが、家老渡辺典膳などの努力で藩取り潰しの危機は免れました。この時、長舒は、父の高鍋藩主秋月種茂の母(春姫)が秋月藩4代藩主黒田長貞の娘という黒田家・秋月家双方の血をひき、若い頃から文武に秀で、その資質を高く評価されていたので、まさに秋月藩が跡継ぎとして渇望した人物でした。
秋月藩は、天明4年(1784年)7代藩主黒田長堅が嗣子がないまま、18歳で若死にし、断絶の危機を迎えました。秋月藩のこの事態に、福岡藩は秋月藩廃絶を画策しましたが、家老渡辺典膳などの努力で藩取り潰しの危機は免れました。この時、長舒は、父の高鍋藩主秋月種茂の母(春姫)が秋月藩4代藩主黒田長貞の娘という黒田家・秋月家双方の血をひき、若い頃から文武に秀で、その資質を高く評価されていたので、まさに秋月藩が跡継ぎとして渇望した人物でした。
秋月散策 葉室麟の秋月藩シリーズを読んで・・・その2 ― 2025-10-23
葉室麟の秋月藩シリーズ
『秋月記』(2009年)、 『蒼天見ゆ』(2015年) を読んで、改めて秋月藩に興味がわき
『秋月記』(2009年)、 『蒼天見ゆ』(2015年) を読んで、改めて秋月藩に興味がわき
 ゆっくり散策しました。
                開催中の”市制施行20周年記念特別展「八代藩主 黒田長舒」”を見て
       勉強させていただきました。
秋月藩中興の祖 「黒田 長舒」(ながのぶ)
黒田長舒は、明和2年(1765年)日向高鍋藩7代藩主種茂の二男(幸三郎)として生まれましたが、天明5年(1785年)21歳のとき、秋月藩8代藩主として迎えられました。長舒は叔父の上杉鷹山をはじめ、先祖に上杉謙信・秋月種実・黒田如水・吉良上野介・妻方に山内一豊等多彩な血筋を持ち後に秋月藩中興の祖と讃えられました。
秋月藩は、天明4年(1784年)7代藩主黒田長堅が嗣子がないまま、18歳で若死にし、断絶の危機を迎えました。秋月藩のこの事態に、福岡藩は秋月藩廃絶を画策しましたが、家老渡辺典膳などの努力で藩取り潰しの危機は免れました。この時、長舒は、父の高鍋藩主秋月種茂の母(春姫)が秋月藩4代藩主黒田長貞の娘という黒田家・秋月家双方の血をひき、若い頃から文武に秀で、その資質を高く評価されていたので、まさに秋月藩が跡継ぎとして渇望した人物でした。
黒田長舒は、明和2年(1765年)日向高鍋藩7代藩主種茂の二男(幸三郎)として生まれましたが、天明5年(1785年)21歳のとき、秋月藩8代藩主として迎えられました。長舒は叔父の上杉鷹山をはじめ、先祖に上杉謙信・秋月種実・黒田如水・吉良上野介・妻方に山内一豊等多彩な血筋を持ち後に秋月藩中興の祖と讃えられました。
秋月藩は、天明4年(1784年)7代藩主黒田長堅が嗣子がないまま、18歳で若死にし、断絶の危機を迎えました。秋月藩のこの事態に、福岡藩は秋月藩廃絶を画策しましたが、家老渡辺典膳などの努力で藩取り潰しの危機は免れました。この時、長舒は、父の高鍋藩主秋月種茂の母(春姫)が秋月藩4代藩主黒田長貞の娘という黒田家・秋月家双方の血をひき、若い頃から文武に秀で、その資質を高く評価されていたので、まさに秋月藩が跡継ぎとして渇望した人物でした。
秋月家高鍋へ移封
1582年本能寺の変で 明智光秀、織田信長を殺害
豊臣秀吉は全国統一を目指し九州へ進攻
1586年 一方全国制覇を目指す薩摩軍は北上し、太宰府の岩屋城を秋月藩と攻め落とし新宮の立花城まで進攻するも南下してきた秀吉軍に敗北。
秋月藩の家臣恵利内蔵助暢尭(えりくらのすけのぶたか)は広島まで秀吉の陣容を偵察に行きそのあまりの偉大さを目の当たりにして秋月藩主の種実に秀吉との和議を進言するも「恐れをなしてそういう戯言をいう」と聞き入れられず、身の潔白を示すため切腹(後述 腹切り岩)。
1587 年 秀吉により秋月家は日向高鍋へ36万石から3万石で移封
1600年 関ケ原の戦い後黒田官兵衛の末弟直之が秋月を治め
1623年 黒田長政の三男長興が秋月藩初代藩主となる。
上杉鷹山は秋月の出身
上杉鷹山は米沢藩の藩政改革を成し遂げケネディ元大統領により日本で有名になった人物。
父は日向高鍋6代藩主秋月種美、母は筑前秋月4代藩主黒田長貞の娘春姫の次男として誕生。母方の祖母の豊姫が米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘である。
これが縁で10才で米沢藩の8代藩主重定の養子となる。
(秋月の観光案内 福岡の小京都より)
秋月藩中興の祖 「黒田 長舒」(ながのぶ)
黒田長舒は、明和2年(1765年)日向高鍋藩7代藩主種茂の二男(幸三郎)として生まれましたが、天明5年(1785年)21歳のとき、秋月藩8代藩主として迎えられました。長舒は叔父の上杉鷹山をはじめ、先祖に上杉謙信・秋月種実・黒田如水・吉良上野介・妻方に山内一豊等多彩な血筋を持ち後に秋月藩中興の祖と讃えられました。
秋月藩は、天明4年(1784年)7代藩主黒田長堅が嗣子がないまま、18歳で若死にし、断絶の危機を迎えました。秋月藩のこの事態に、福岡藩は秋月藩廃絶を画策しましたが、家老渡辺典膳などの努力で藩取り潰しの危機は免れました。この時、長舒は、父の高鍋藩主秋月種茂の母(春姫)が秋月藩4代藩主黒田長貞の娘という黒田家・秋月家双方の血をひき、若い頃から文武に秀で、その資質を高く評価されていたので、まさに秋月藩が跡継ぎとして渇望した人物でした。
1582年本能寺の変で 明智光秀、織田信長を殺害
豊臣秀吉は全国統一を目指し九州へ進攻
1586年 一方全国制覇を目指す薩摩軍は北上し、太宰府の岩屋城を秋月藩と攻め落とし新宮の立花城まで進攻するも南下してきた秀吉軍に敗北。
秋月藩の家臣恵利内蔵助暢尭(えりくらのすけのぶたか)は広島まで秀吉の陣容を偵察に行きそのあまりの偉大さを目の当たりにして秋月藩主の種実に秀吉との和議を進言するも「恐れをなしてそういう戯言をいう」と聞き入れられず、身の潔白を示すため切腹(後述 腹切り岩)。
1587 年 秀吉により秋月家は日向高鍋へ36万石から3万石で移封
1600年 関ケ原の戦い後黒田官兵衛の末弟直之が秋月を治め
1623年 黒田長政の三男長興が秋月藩初代藩主となる。
上杉鷹山は秋月の出身
上杉鷹山は米沢藩の藩政改革を成し遂げケネディ元大統領により日本で有名になった人物。
父は日向高鍋6代藩主秋月種美、母は筑前秋月4代藩主黒田長貞の娘春姫の次男として誕生。母方の祖母の豊姫が米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘である。
これが縁で10才で米沢藩の8代藩主重定の養子となる。
(秋月の観光案内 福岡の小京都より)
秋月藩中興の祖 「黒田 長舒」(ながのぶ)
黒田長舒は、明和2年(1765年)日向高鍋藩7代藩主種茂の二男(幸三郎)として生まれましたが、天明5年(1785年)21歳のとき、秋月藩8代藩主として迎えられました。長舒は叔父の上杉鷹山をはじめ、先祖に上杉謙信・秋月種実・黒田如水・吉良上野介・妻方に山内一豊等多彩な血筋を持ち後に秋月藩中興の祖と讃えられました。
秋月藩は、天明4年(1784年)7代藩主黒田長堅が嗣子がないまま、18歳で若死にし、断絶の危機を迎えました。秋月藩のこの事態に、福岡藩は秋月藩廃絶を画策しましたが、家老渡辺典膳などの努力で藩取り潰しの危機は免れました。この時、長舒は、父の高鍋藩主秋月種茂の母(春姫)が秋月藩4代藩主黒田長貞の娘という黒田家・秋月家双方の血をひき、若い頃から文武に秀で、その資質を高く評価されていたので、まさに秋月藩が跡継ぎとして渇望した人物でした。
原古処の墓がある西念寺、秋月目鏡橋へ向かいます。
【本證寺】
初代藩主黒田長興と親交の厚かった、博多の妙展寺の住職三光院日焉によって、寛永元年(1624年)に設立されました。山門に掲げられている「福王山」の額は長興の自筆とされています。
【西念寺】
秋月種実公の家臣小山田正信が豊臣秀吉の九州征伐に随行してきた本願寺の教如に出家をすすめられ自宅を寺として開山したお寺とのことです。黒田藩の初代藩主の時代に現在の場所に移されたといったお寺の由来が前に書かれています。
        参道から階段を上がると境内になります。
         秋月の西念寺、本堂です。
西念寺の本殿裏には、藩校稽古館の教授を務め漢詩人としても知られる原古処(はらこしょ)、その娘采蘋(さいひん)などの墓があります。
西念寺の本殿裏には、藩校稽古館の教授を務め漢詩人としても知られる原古処(はらこしょ)、その娘采蘋(さいひん)などの墓があります。
        原古処のお墓まで案内表示があります。
        原古処、猷(みち)(采蘋)のお墓
 一家の墓は秋月の西念寺にあり、古処の大きな墓は晩年の采蘋が建てたもので、表が頼山陽書、左面に采蘋書の廣瀬淡窓の詩が刻まれています。采蘋の遺髪を納めた小さな墓は父の右手前に、父母・兄弟の方に向かって慎ましく立ち、古処・采蘋に学んだ吉田平陽の書いた墓誌が刻まれています。曰く、「雌而不伏、千里独行、秀句日出、山移水迎、茫々天下、誰走弋者」(女性であったが身を隠したりしなかった。日本の山河を一人で歩き巡り、素晴らしい詩をたくさん作った。この広い世界のだれも彼女を捕まえることはできなかった)。 (朝倉市HPより)
福岡黒田藩の代わりに命じられた長崎警備役の折、石橋群をはじめて見てその頑丈さに驚いた8代藩主長舒は、秋月城下野鳥川に架かる木橋が、流されたり、腐ったりしてその維持費に頭を痛めていたことから、いち早く目をつけていましたが、その建設には莫大な資金がいるため見合わせていました。
文化2年(1805)になると、なんとしても石橋の実現が望まれ、家老宮崎織部等の進言もあって、目鏡橋架橋に踏み切りました。
しかし、文化4年(1807)2年を費やしてほぼ完成していた石橋は大音響と共に崩壊しました。苦しい財政の中から無理算段した架橋工事すべてが、水泡となった衝撃は、病床にあった長舒を直撃しました。わずか43歳の若さで急逝することとなります。再び石橋建設が住民の間にも高まり着工されたのは、2年後の文化6年(1809)秋でした。
そして、文化7年(1810)ようやく完成したこの目鏡橋は、御影石のオランダ風アーチ橋であり、花崗岩で作られ両側が階段式になった全国唯一の石橋です。
【文化財指定】昭和31年4月3日 福岡県指定有形文化財(建造物)
文化2年(1805)になると、なんとしても石橋の実現が望まれ、家老宮崎織部等の進言もあって、目鏡橋架橋に踏み切りました。
しかし、文化4年(1807)2年を費やしてほぼ完成していた石橋は大音響と共に崩壊しました。苦しい財政の中から無理算段した架橋工事すべてが、水泡となった衝撃は、病床にあった長舒を直撃しました。わずか43歳の若さで急逝することとなります。再び石橋建設が住民の間にも高まり着工されたのは、2年後の文化6年(1809)秋でした。
そして、文化7年(1810)ようやく完成したこの目鏡橋は、御影石のオランダ風アーチ橋であり、花崗岩で作られ両側が階段式になった全国唯一の石橋です。
【文化財指定】昭和31年4月3日 福岡県指定有形文化財(建造物)
         当地では眼鏡ではなく「目鏡」の字を用いています。
          上流より望む
         野鳥川の川床は、石畳を敷いた趣き深い造り。
          下流より望む
 葉室麟さんの「秋月記」は江戸時代後期、福岡藩の支藩だった秋月藩が舞台。専横を極める家老・宮崎織部(おりべ)への不満が高まり、間小四郎(あいだ・こしろう)ら若手藩士が糾弾に立ち上がる。織部の排除に成功し、藩政は正常化するかと思われたが、実は背後に支藩を思い通りに動かそうとする福岡藩の策謀があり…「織部崩れ」…、というストーリー
城下町入り口には、織部が長崎の石工に造らせた石橋(秋月目鏡橋・あきづきめがねばし)が残る。完成式直前に崩落し、その後造り直されたというエピソードは小説にもそのまま登場します。
城下町入り口には、織部が長崎の石工に造らせた石橋(秋月目鏡橋・あきづきめがねばし)が残る。完成式直前に崩落し、その後造り直されたというエピソードは小説にもそのまま登場します。























































































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