葉室 麟の「いのちなりけり 」を読んで、佐賀県小城を散策へ! ①小城公園 ― 2025-07-03
いのちなりけり / 葉室 麟
鍋島家と龍造寺家の因縁、水戸藩と鍋島藩の関係、幕府と朝廷、島原の乱の天草四朗などの話を織り交ぜながら、幕政に不満を抱く朝廷側の中院通茂卿そして水戸光圀と佐賀支藩の小城藩主鍋島元武に対峙する将軍綱吉と大老堀田正俊亡き後暗躍する柳沢保明に抗う雨宮蔵人の生き様が描かれていく。
水戸光圀や助さん格さんに当たる人物も登場する。黄門様とは違って、権力欲が強く好色で非情な人物として描かれていて驚きました。
鍋島家と龍造寺家の因縁、水戸藩と鍋島藩の関係、幕府と朝廷、島原の乱の天草四朗などの話を織り交ぜながら、幕政に不満を抱く朝廷側の中院通茂卿そして水戸光圀と佐賀支藩の小城藩主鍋島元武に対峙する将軍綱吉と大老堀田正俊亡き後暗躍する柳沢保明に抗う雨宮蔵人の生き様が描かれていく。
水戸光圀や助さん格さんに当たる人物も登場する。黄門様とは違って、権力欲が強く好色で非情な人物として描かれていて驚きました。
小城藩 - 戦国時代後半から江戸時代まで
戦国時代後半になると、千葉氏は内紛などにより次第に衰えていきますが、肥前国内では龍造寺(りゅうぞうじ)氏が急速に台頭し、小城もその支配下に入るようになりました。
しかし、天正12年(1584年)に龍造寺隆信(たかのぶ)が戦死すると、その家臣鍋島直茂(なべしま なおしげ)が勢力を得て、その子鍋島勝茂(かつしげ)は慶長12年(1607年)に龍造寺氏の所領を継ぎ鍋島氏の支配が確立されました。
元和3年(1617年)、勝茂の庶長子鍋島元茂(もとしげ)は小城に知行をうけて、小城藩が始まりました。2代藩主・鍋島直能(なおよし)は、今の小城公園一帯(小城高校も含む)に館を築き、小城は小城藩の政治・経済・文化の中心地として、また、牛津は長崎街道の宿場町として栄えました。石高7万3千石あまりの藩政は明治維新まで続きました。 (小城市HPより)
戦国時代後半になると、千葉氏は内紛などにより次第に衰えていきますが、肥前国内では龍造寺(りゅうぞうじ)氏が急速に台頭し、小城もその支配下に入るようになりました。
しかし、天正12年(1584年)に龍造寺隆信(たかのぶ)が戦死すると、その家臣鍋島直茂(なべしま なおしげ)が勢力を得て、その子鍋島勝茂(かつしげ)は慶長12年(1607年)に龍造寺氏の所領を継ぎ鍋島氏の支配が確立されました。
元和3年(1617年)、勝茂の庶長子鍋島元茂(もとしげ)は小城に知行をうけて、小城藩が始まりました。2代藩主・鍋島直能(なおよし)は、今の小城公園一帯(小城高校も含む)に館を築き、小城は小城藩の政治・経済・文化の中心地として、また、牛津は長崎街道の宿場町として栄えました。石高7万3千石あまりの藩政は明治維新まで続きました。 (小城市HPより)
小城の玄関口、小城駅(Ogi Station)からスタートです。
【JR小城駅】
小城の玄関口にある「小城駅」、今から100年以上前の1903年(明治36年)に唐津線の開通と同時にできた駅です。明治期に建てられた駅舎は、国登録の有形文化財に認定されています。
現在の駅舎は開通当時に建てられた歴史ある建物を、平成27年にリニューア
小城駅の正面には、いかにも昔風の書体でかかれた「小城駅」の額があります。
こちらは小城市出身の書聖、中林梧竹が書いたとされる書をもとにつくられたものです。
無人駅です。素敵なピアノがある待合室。
駅前ロータリーには墨筆を使って「鎮國之山」を書いているシーンを再現した、中林梧竹の等身大の像もあります。
小城公園
小城鍋島初代藩主・元茂から二代藩生直能によって造られた名庭園。
四角い犬槇(イヌマキ)
、正方形に手入れされていて、平面で36畳もあるらしい。
蛍川
庭園の一角に、小川があり、水が暖かいためか、ゲンジボタルが4月末位には出始めるそうだ。
庭園の一角に、小川があり、水が暖かいためか、ゲンジボタルが4月末位には出始めるそうだ。
春雨の碑(柴田花守翁誕生の碑)
長崎の丸山で作られた端唄「春雨」を、小城藩士の柴田花守が作詞した縁で造られた春雨の碑がある。
長崎の丸山で作られた端唄「春雨」を、小城藩士の柴田花守が作詞した縁で造られた春雨の碑がある。
【岡山神社】 小城鍋島家の殿様を祀った神社。
一ノ鳥居 肥前鳥居です
初代鍋島元茂(もとしげ)公は徳川家光に仕え、剣術の達人で柳生宗矩から柳生新陰流の免許皆伝を許されたそうです。
【烏森稲荷神社】
烏森稲荷神社、一の鳥居
岡山神社に隣接する烏森稲荷神社の二の鳥居
稲荷鳥居
烏森稲荷神社の拝殿 - 拝殿の前に1対の神馬と2対の狛犬さんがいらっしゃいます。
烏森稲荷神社 - 元禄12年(1699)9月、三代藩主鍋島元武によって創建された。江戸屋敷内に奉祀されていた「烏森稲荷」を遷宮し、宮島武蔵によって勧請されたものという。
後西院御製碑
桜岡公園碑
葉室 麟の「いのちなりけり 」を読んで、佐賀県小城を散策② 須賀神社・星巖寺 ― 2025-07-03
いのちなりけり / 葉室 麟
鍋島家と龍造寺家の因縁、水戸藩と鍋島藩の関係、幕府と朝廷、島原の乱の天草四朗などの話を織り交ぜながら、幕政に不満を抱く朝廷側の中院通茂卿そして水戸光圀と佐賀支藩の小城藩主鍋島元武に対峙する将軍綱吉と大老堀田正俊亡き後暗躍する柳沢保明に抗う雨宮蔵人の生き様が描かれていく。
水戸光圀や助さん格さんに当たる人物も登場する。黄門様とは違って、権力欲が強く好色で非情な人物として描かれていて驚きました。
鍋島家と龍造寺家の因縁、水戸藩と鍋島藩の関係、幕府と朝廷、島原の乱の天草四朗などの話を織り交ぜながら、幕政に不満を抱く朝廷側の中院通茂卿そして水戸光圀と佐賀支藩の小城藩主鍋島元武に対峙する将軍綱吉と大老堀田正俊亡き後暗躍する柳沢保明に抗う雨宮蔵人の生き様が描かれていく。
水戸光圀や助さん格さんに当たる人物も登場する。黄門様とは違って、権力欲が強く好色で非情な人物として描かれていて驚きました。
小城鍋島初代藩主・元茂から二代藩生直能によって造られた名庭園「小城公園」から
須賀神社 - 深川家住宅 - 祥光山星巌寺(じょうこうざんせいがんじ)へ。
【須賀神社】
須賀神社 一の鳥居
正和5年(1316年)、下総(千葉県)から小城に下向し、千葉城を建造した千葉胤貞が建立したといわれ、境内から美しい街並みを一望できます。市民には「祇園さん」の名で親しまれ、毎年7月には山挽祇園も。真下にはゲンジボタルが飛び交う祇園川が流れています。
須賀神社に行くには、153段の階段を上る。50段ごとに、少し広くなっているので、2度小休止できるようになっています。
須賀神社に行くには、153段の階段を上る。50段ごとに、少し広くなっているので、2度小休止できるようになっています。
祇園川を渡った麓の二の鳥居と神門から一直線に上る急峻な石段が社殿まで繋いでいます。
二の鳥居と神門
石段の途中の三の鳥居は、肥前鳥居です
小休止で、街並みを望む
社殿
宝貴稲荷神社 - 社殿向かって右手に鎮座。保食神を祀っています。
須賀神社の階段を登り、右へ曲がって暫く進むと千葉公園(千葉城)に到着します。
千葉公園から市街地を望む
太閤腰掛石
豊臣秀吉が、文禄・慶長の役の時に、名護屋城に向かうのに陸路で行ったという史実があるので、途中小城によって鳥居のそばにあった石に座ったといわれている。
豊臣秀吉が、文禄・慶長の役の時に、名護屋城に向かうのに陸路で行ったという史実があるので、途中小城によって鳥居のそばにあった石に座ったといわれている。
村岡羊かん
村岡羊かんは、明治時代の建物で、県の重要文化財に指定されている
村岡羊かんは、明治時代の建物で、県の重要文化財に指定されている
深川家住宅
佐賀県遺産として登録されている江戸時代造り酒屋だったそうです。
祥光山星巌寺(じょうこうざんせいがんじ)
楼門は、9代直堯(なおたか)公が作り、竜宮城に似ているところから、
中国文化を影響受けているのではないかとのこと。佐賀県重要文化財に登録されている
中国文化を影響受けているのではないかとのこと。佐賀県重要文化財に登録されている
楼門の裏は広場になっていて寺院らしきものは見あたらない!
本堂跡 楼門ができたのが1852年で、残念ながら本堂等は朽ちたため、
現在は広場になっている。
落ち葉をはわき管理している方を発見。 墓所・五百羅漢への入り口とわかりました。
五百羅漢 盗難にあったり、壊れたりで数が減ったので、今は二百体弱くらいとのこと。
小城鍋島家墓所 右側のくぐり戸から入ります。
初代藩主鍋島元茂公の墓と正室仁王姫の墓。
二代藩主鍋島直能公の墓。
四代藩主鍋島元延公の御霊屋。
五代藩主鍋島直英公の墓
七代藩主鍋島直愈の墓。
八代藩主鍋島直知の墓
肥前小城藩主鍋島家墓所 配置図
初代から11代までの墓があるが、3代・6代・9代の墓がない
黄檗宗は、3・6・9の数字を忌み嫌って いたのが理由ではないかということらしい?
3代・6代・9代の墓は、玉毫寺(ぎょくこうじ)の寺にあるそうです。
開山堂の跡らしい。
星巖寺を開祖したのは小城市出身の潮音道海和尚で
現在は物置のような状態になっている。
報恩堂 藩主それぞれの位牌が置かれている。
18世紀ごろ建てられたと考えられている。
藩主それぞれの位牌が並んでいます。
回廊 この回廊も昔のままの風景を留めているそうです。
「平成の羅漢」のプレートが右を指しています。
回廊から先に進んだ平成の羅漢エリア、近年作られた可愛い像やユニークな様々な石仏群が並んでいます。
小城市立歴史資料館・桜城館(おうじょうかん)に立ち寄り、戦国時代後半から江戸時代までの数々の資料で学びました。
小説から、ネット情報から、小城鍋島家の話しをいくつも聞きました。
初代鍋島元茂(もとしげ)公は徳川家光に仕え、剣術の達人で柳生宗矩から柳生新陰流の免許皆伝を許された。母親の身分が低かったため、佐賀本藩の藩主鍋島勝茂公の長男にもかかわらず、佐賀本藩を継げなかった。2代藩主直能(なおよし)公は、家光公に仕えていて、和歌が得意でその他にも23くらい免許を持っていたそうだ。奥様が水戸家から嫁いできていたため、3代藩主元武公は水戸光圀公と親しかった。また3代は、5代綱吉公に仕えていて、初代から3代目までは、文武両道だったとのこと。 魅力あふれる小城藩です。
「いのちなりけり」
「花や散るらん」
奇縁によって、蔵人と咲弥の養女となる吉良上野介の孫・香也(かや)が、赤穂浪士の討入りを目のあたりにする物語。
「影ぞ恋しき」(上・下)
その四年後、鞍馬山で暮らす蔵人、冬木清四郎が訪ねてくることで幕があき、勃発する幕府と朝廷の抗争をはじめ様々な物語が展開する。お勧めです!
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