彦根 散策!(格安フェリーの旅)-- 彦根城 夢京橋キャッスルロード ― 2024-11-08
歴史小説を愛読する私にとって、戦国時代の変遷を舞台とする琵琶湖周辺は行きたいところがいっぱいです。
数年前に、大津から京都南禅寺まで疎水沿いを歩いて散策しました。
今年の5月は、近江八幡、安土城を散策しました。
今回は、彦根駅から 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 彦根城 夢京橋キャッスルロードを散策です。
数年前に、大津から京都南禅寺まで疎水沿いを歩いて散策しました。
今年の5月は、近江八幡、安土城を散策しました。
今回は、彦根駅から 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 彦根城 夢京橋キャッスルロードを散策です。
佐和山城跡 龍潭寺から徒歩で15分。彦根城が見えてきました。
二の丸、中堀の石垣
いろは松
佐和口に向かうお堀沿いにある松並木で、34本の松が残っています。井伊直孝によって植樹された当時は47本の松並木だったことから、いろは47文字になぞらえて「いろは松」と呼ばれるようになりました。
通行の妨げとなるのを防ぐため、地上に根が出ない種類の「土佐松」が高知県より移植されました。
佐和口に向かうお堀沿いにある松並木で、34本の松が残っています。井伊直孝によって植樹された当時は47本の松並木だったことから、いろは47文字になぞらえて「いろは松」と呼ばれるようになりました。
通行の妨げとなるのを防ぐため、地上に根が出ない種類の「土佐松」が高知県より移植されました。
佐和口多聞櫓
多聞櫓とは、長屋のような見た目が特徴で、細長い形状をした櫓のこと。佐和口に向かって左側に延びているのが、重要文化財の櫓です。もともとは右側の櫓と一体となっていましたが、明治時代に入ると門と一緒に解体されました。
多聞櫓とは、長屋のような見た目が特徴で、細長い形状をした櫓のこと。佐和口に向かって左側に延びているのが、重要文化財の櫓です。もともとは右側の櫓と一体となっていましたが、明治時代に入ると門と一緒に解体されました。
馬屋
佐和口多聞櫓近くにある建物です。21頭もの馬が収容可能で、常に十数頭の馬がつながれていました。近世城郭の城内に大規模な馬屋が残るのは、彦根城だけです。
佐和口多聞櫓近くにある建物です。21頭もの馬が収容可能で、常に十数頭の馬がつながれていました。近世城郭の城内に大規模な馬屋が残るのは、彦根城だけです。
表御門
彦根城には、大手門と表御門があります。
もともとは大坂城の方角にあたる南西に大手門が築かれ、
豊臣家が滅亡後、江戸城の方角にあたる表御門が実質の正面玄関になったらしい。
券売所 大人:1000円です
天秤櫓に向かって登ります。
天秤櫓・廊下橋
天秤櫓(てんびんやぐら)
大手門と表門の合流する要所に建てられた天秤櫓は、左右の櫓が別々の役割を果たすなど、防衛に優れていました。この形状の櫓は、国内では彦根城でしか見ることができません。天秤櫓の前には、尾根を削った大堀切があり、その上に廊下橋がかかっています。敵がこの橋に差し掛かった際、橋を壊すことによって、敵兵の侵入を防ごうとする仕組みでした。
大手門と表門の合流する要所に建てられた天秤櫓は、左右の櫓が別々の役割を果たすなど、防衛に優れていました。この形状の櫓は、国内では彦根城でしか見ることができません。天秤櫓の前には、尾根を削った大堀切があり、その上に廊下橋がかかっています。敵がこの橋に差し掛かった際、橋を壊すことによって、敵兵の侵入を防ごうとする仕組みでした。
廊下橋をくぐって直進すると、大手門に向かいます
廊下橋をくぐって、鐘の丸へ。 鐘の丸から廊下橋を渡って天秤櫓へ。
鐘の丸
鐘の丸から天秤櫓を望む
この櫓は、豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したといわれている、門を開けて上から観ると天秤のような形から天秤橋と呼ばれた。
左右の櫓の向きにご注目! よく見ると両隅の二階櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違い左右対称でなありません。右(東側)が江戸に、左(西側)が京の都に正面を向けた時代を反映した形で建てられている。
左右の櫓の向きにご注目! よく見ると両隅の二階櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違い左右対称でなありません。右(東側)が江戸に、左(西側)が京の都に正面を向けた時代を反映した形で建てられている。
天秤櫓の内部が公開されています。
時報鐘
場内の太鼓門近くにある時報鐘は、当初は南側の鐘の丸に設置されていたが、北側に音が届かないという理由で現在の場所に移されたそうです。
場内の太鼓門近くにある時報鐘は、当初は南側の鐘の丸に設置されていたが、北側に音が届かないという理由で現在の場所に移されたそうです。
太鼓門櫓
天守を防御する最後の門であった太鼓櫓門。東側の背面部分には壁がなく、高欄の付いた廊下となっており、この構造は大変貴重です。城内合図を送るための太鼓が置かれていたことが、名前の由来だと言われています。
太鼓門櫓は、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしています。 登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。
天守を防御する最後の門であった太鼓櫓門。東側の背面部分には壁がなく、高欄の付いた廊下となっており、この構造は大変貴重です。城内合図を送るための太鼓が置かれていたことが、名前の由来だと言われています。
太鼓門櫓は、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしています。 登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。
太鼓門櫓も、天守や天秤櫓、西の丸三重櫓などと同様に、築城時にほかの場所から移築された建物です。
天守を防御する最後の門、太鼓櫓門をくぐると、いよいよ天守のある本丸です!
沢山の人だかりが! ひこにゃんのショーが行われていました。
国宝 彦根城天守、附櫓及び多聞櫓
天守は3階3重の屋根で構成されています。屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど)」、3階には高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。完全に装飾化した廻縁と高欄で、入母屋(いりもや)破風があるため、廻ることが出来ませんし、幅も狭く、床面より高いため外へ出ることはできません。
天守の載る石垣は「牛蒡積み」(ごぼうづみ)と呼ばれ、自然石を使用した、堅固な石垣です。
天守は3階3重の屋根で構成されています。屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど)」、3階には高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。完全に装飾化した廻縁と高欄で、入母屋(いりもや)破風があるため、廻ることが出来ませんし、幅も狭く、床面より高いため外へ出ることはできません。
天守の載る石垣は「牛蒡積み」(ごぼうづみ)と呼ばれ、自然石を使用した、堅固な石垣です。
天守は大津城、「佐和口多聞櫓」(さわぐちたもんやぐら)は佐和山城、「天秤櫓」は「長浜城」から移築されたと言われています。
昭和27年(1952年)に国宝に指定。
彦根城以外の国宝天守は、姫路城・松本城・犬山城・松江城だけです。
彦根城以外の国宝天守は、姫路城・松本城・犬山城・松江城だけです。
公開されている彦根城国宝天守の内部へ。
国宝天守耐震対策工事の為、天主二層・三層は観覧できましたが天守一層は観覧できませんでした。
入口を入るとすぐ、黒鉄の扉が・・
急な階段を登り、3階へ。
廻縁と高欄がありますが、床面より高いため外へ出ることはできません。
天守から琵琶湖方面を望む
ちょっと怖いくらいの急な下り。
着見台(つきみだい)― 着見櫓跡
本丸の東端に突き出した着見台、石段を登ると、佐和山城跡、彦根城下と琵琶湖まで一望できる。
本丸の東端に突き出した着見台、石段を登ると、佐和山城跡、彦根城下と琵琶湖まで一望できる。
着見台から、西の丸の石垣を望む
着見台から、佐和山城跡、彦根城下を望む。
着見台から、天主を望む。
本丸の西側に位置する「西の丸」。
西の丸三重櫓
本丸の西側に位置する「西の丸」。その西北に位置する櫓です。三重櫓には、東側と西側に続櫓(つづきやぐら)が連なっています。天守のように装飾的な破風(はふ)などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗りとし簡素な中にも気品のある櫓です。 裏手から侵入する敵に備える要所となっていました。
東側の続櫓ごしに観る佐和山城跡
西の丸から、観音台を望む。
西の丸から、黒門に向かう石段、黒門山道を望む。
黒門山道から望む天主
井戸曲輪跡
本丸から黒門へ向かう坂道の途中に設けられた小曲輪。
石組み溝で集めた雨水を浄化して貯水するタイプの井戸があったらしい。
本丸から黒門へ向かう坂道の途中に設けられた小曲輪。
石組み溝で集めた雨水を浄化して貯水するタイプの井戸があったらしい。
黒門を内堀側から望む。
彦根藩第13代藩主 井伊直弼生誕地・・・工事中でした。
表御門まえの中堀を屋形船がゆっくりと・・・
大手門
大坂城の方角にあたる南西に築かれた大手門
西郷屋敷長屋門
京橋口門と雁木
京橋口門
京橋から中堀を望む。
彦根城の京橋口門から京橋を渡ると、「夢京橋キャッスルロード」があります。夢京橋キャッスルロードは、江戸時代の城下町を再現した、飲食店や土産物屋が並ぶスポットです。
湖国バス、四番町スクエアバス停よりJR彦根駅まで移動です。
JR彦根駅西口まえの、井伊直政公之像。
16:22発 新快速でJR住吉駅へ、セブンでつまみを仕入れてフェリーへ向かいます。

彦根 散策!(格安フェリーの旅)-- 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 ― 2024-11-08
歴史小説を愛読する私にとって、戦国時代の変遷を舞台とする琵琶湖周辺は行きたいところがいっぱいです。
数年前に、大津から京都南禅寺まで疎水沿いを歩いて散策しました。
今年の5月は、近江八幡、安土城を散策しました。
今回は、彦根駅から 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 彦根城 夢京橋キャッスルロードを散策です。
数年前に、大津から京都南禅寺まで疎水沿いを歩いて散策しました。
今年の5月は、近江八幡、安土城を散策しました。
今回は、彦根駅から 清凉寺 龍潭寺 佐和山城跡 彦根城 夢京橋キャッスルロードを散策です。
旅の準備で、佐和山城跡までの徒歩を検索するとJR東海道線の西側・東側2つのルートが出てきました。
みぎのルートを選択し、彦根駅東口から北東へ
彦根駅東口から北東へ進みR8付近でGoogleMapで検索するとなんと図左のルートが表示されます。一瞬戸惑いましたが、決めたルートを地図観ながら探しました。
R8の交差点に案内板がありました。
横断歩道を渡り、北へ。近江鉄道の踏切近くまで進んで散歩中の方に尋ねました。
ガード下に、こんな案内板を見つけました。
車の先を左に入って川沿いに右に進め!みたいです。(下図参照)
河川の散歩道みたいな処をひたすらまっすぐ進むと清凉寺に着きました。
【 清凉寺 】
井伊家の菩提寺として、また父井伊直政の墓所として直孝が開基した曹洞宗永平寺派の寺院。
本堂裏の高台には歴代藩主の宝篋印塔がある。
寺地が石田三成の名家老といわれた島左近の屋敷跡で、関ケ原の戦いの戦没者の供養も兼ねているそうです。
本堂裏の高台には歴代藩主の宝篋印塔がある。
寺地が石田三成の名家老といわれた島左近の屋敷跡で、関ケ原の戦いの戦没者の供養も兼ねているそうです。
本堂裏の高台には歴代藩主の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
野生の猿がたくさん遊んでいました。
【 龍潭寺 】
井伊氏の始祖、藤原共保(ともやす)以来の井伊家の菩提寺で、奈良時代行基によって遠江国(現静岡県)井伊谷に開基された、臨済宗妙心寺派の寺院です。
井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天(こうてん)が佐和山(232.5m)山麓に移築しました。
井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天(こうてん)が佐和山(232.5m)山麓に移築しました。
石田三成の銅像
龍潭寺 山門
山門の左入り口の柱に小さな案内が・・・
龍潭寺玄関
七福神
観音堂
佐和山城跡をめざす、ハイキングコースのスタートです
入口にあった、ハイキングコースの案内板
佐和山城
関ヶ原の合戦(1600年)で、西軍を率いた石田三成の居城。
関ヶ原の合戦(1600年)で、西軍を率いた石田三成の居城。
信長・秀吉の時代にも、佐和山城は近江の要衝を守る城として重視されました。江北と江南の「境目の城」として城が造られ、浅井長政時代には磯野員昌が、織田信長時代には丹羽長秀が、羽柴秀吉時代には堀尾吉春、石田三成といった重臣が城主となっています。1600(慶長5)年の関ケ原合戦後は、徳川四天王の一人、井伊直政が城主となりますが、1604(慶長9)年の彦根城着工に伴い、佐和山城は廃城となります。
関ヶ原の合戦で敗れ“大一大万大吉”の理想まであと一歩届きませんでした。代わってこの地の領主となった井伊家は、佐和山城を破城しました。この際、石垣や建材の一部は彦根城へと運ばれ、築城の材料として使用されました。
切通し -- 古絵図に「かもう坂通り往還」と記されている切通しです。
東山道と琵琶湖岸の松原をつなぐ道として、旅人や牛馬が往来したという。
東山道と琵琶湖岸の松原をつなぐ道として、旅人や牛馬が往来したという。
西の丸 塩硝櫓跡
やっと本丸跡がみえてきました。
本丸跡
左に荒神山、中央に彦根城、奥は琵琶湖が望める。
彦根城の天守が望める。
佐和山 三角点 標高233m
隅石垣
2段に積まれた本丸跡の石垣
南側の登口の方へ急坂を下ると千貫井戸の看板があります。
大雨などのの影響か樹々が倒れ井戸の屋根や囲いはすっかり潰れてしまっています。
千貫井戸から本丸跡へ戻り、龍潭寺へ下山します。
何度か滑りながらも無事下山。途中何度か野生のお猿さんに遭遇しました。
JR彦根駅から 龍潭寺までが20分ほど、
龍潭寺 観音堂から 佐和山城天主台跡まで25分ほど
下山は、 15分~20分ほど
徒歩で彦根城へ向かいます。
近江八幡 散策! (格安フェリーの旅) ― 2024-05-17
昨年度11月、近江八幡、安土城を訪ねる計画を立てていましたが雨の為、予定変更して 雨の京都 白川、祇園界隈を散策にしました。
で、リベンジ。 近江八幡、安土城を訪ねる旅を計画しました。
安土城散策のあと、JR安土駅よりJR近江八幡駅へ
で、リベンジ。 近江八幡、安土城を訪ねる旅を計画しました。
安土城散策のあと、JR安土駅よりJR近江八幡駅へ
バス乗り場が沢山あります。
観光案内所で6番乗り場から小幡町資料館前まで行くといいと聞く。
観光案内所で6番乗り場から小幡町資料館前まで行くといいと聞く。

小幡町資料館前で帰りの時刻表を確認して散策スタート!
旧伴家住宅
旧伴家住宅は、江戸時代初期の豪商「伴庄右衛門」が本家として建てた商家です。
文政10年(1827)より天保11年(1840)の十数年をかけて建築したものですが、明治時代になって八幡町に譲渡して小学校・女学校と変遷しました。戦後は近江兄弟社図書館として使用され後に近江八幡市立図書館となり、現在は旧伴家住宅として公開されています。
文政10年(1827)より天保11年(1840)の十数年をかけて建築したものですが、明治時代になって八幡町に譲渡して小学校・女学校と変遷しました。戦後は近江兄弟社図書館として使用され後に近江八幡市立図書館となり、現在は旧伴家住宅として公開されています。
新町通り
近江八幡市新町にある通り。江戸から明治にかけて建てられた近江商人たちの住まいが残されており、国の重要伝統的建造物保存地域に指定されている。郷土資料館や歴史民俗資料館、旧西川家住宅や旧伴家住宅などの近江商人の住宅が公開されている。
近江八幡市新町にある通り。江戸から明治にかけて建てられた近江商人たちの住まいが残されており、国の重要伝統的建造物保存地域に指定されている。郷土資料館や歴史民俗資料館、旧西川家住宅や旧伴家住宅などの近江商人の住宅が公開されている。
左、旧西川家住宅 蚊帳や畳表の商いで栄えた西川利右衛門の旧家。
正面の山が、八幡山 1585年(天正13年)豊臣秀次が築いた八幡山城の城跡です。
八幡堀
安土桃山時代に豊臣秀次が、琵琶湖を往来する荷船を寄港させるために整えた八幡堀。全長6㎞の堀沿いには白壁土蔵の商家が並び、歴史を感じながら水郷の風情を満喫できる。
安土桃山時代に豊臣秀次が、琵琶湖を往来する荷船を寄港させるために整えた八幡堀。全長6㎞の堀沿いには白壁土蔵の商家が並び、歴史を感じながら水郷の風情を満喫できる。
近江兄弟社メンターム資料館
創業者ウィリアム‧メレル‧ヴォーリズ(William Merrell Vories)の精神を継承する株式会社近江兄弟社。本社1階ロビーを「メンターム資料館」として無料開放し、創業者であるウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の歩んだ足跡を写真パネル展示されています。
創業者ウィリアム‧メレル‧ヴォーリズ(William Merrell Vories)の精神を継承する株式会社近江兄弟社。本社1階ロビーを「メンターム資料館」として無料開放し、創業者であるウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の歩んだ足跡を写真パネル展示されています。
西川甚五郎邸
八幡堀沿いに建つ「西川甚五郎本店」建物だけで200坪、庭を含めると700坪にもなる敷地を有する。界隈でも一際目を引く、立派な佇まい。
1587(天正15)年に西川家初代が近江八幡に居を構えて以来、江戸・京都・大阪ほかに出店を設け、一貫して本店は、本家のある地を拠点に商いを展開してきました。
八幡堀沿いに建つ「西川甚五郎本店」建物だけで200坪、庭を含めると700坪にもなる敷地を有する。界隈でも一際目を引く、立派な佇まい。
1587(天正15)年に西川家初代が近江八幡に居を構えて以来、江戸・京都・大阪ほかに出店を設け、一貫して本店は、本家のある地を拠点に商いを展開してきました。
白雲館
偶然、かっこいいロータス・セブンが・・・・・
八幡堀 ・・ 白雲橋より左右を望む
近江八幡日牟禮ヴィレッジ(たねや 日牟禮乃舍・クラブハリエ 日牟禮館)
近江八幡をこよなく愛した建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ。
日牟禮カフェは彼の手がけた旧忠田邸を補修改築した建物です。
日牟禮八幡宮
日牟禮八幡宮
近江商人から守護神として崇められた古社。エノキやムクの古木が生い茂る広大な神域に、拝殿や本殿が立つ。左義長まつりと八幡まつりは、県の二大火祭りで、国の選択無形民俗文化財。
近江商人から守護神として崇められた古社。エノキやムクの古木が生い茂る広大な神域に、拝殿や本殿が立つ。左義長まつりと八幡まつりは、県の二大火祭りで、国の選択無形民俗文化財。
八幡山城跡・村雲御所瑞龍寺門跡
石垣のみを残す「八幡城跡」、虎口、本丸跡などの石垣が見所です。
桝形虎口の石垣
村雲御所瑞龍寺門跡 : 桝形虎口に門が建つ
本丸跡石垣前の手水舎
村雲御所瑞龍寺門跡 本堂
日蓮宗唯一の門跡寺院。
開基は関白豊臣秀次公の生母、瑞龍寺殿日秀尼公で、高野山で割腹、非業の最期を遂げた秀次公の菩提を弔うために文録5年創建。昭和36年に京都から八幡山城跡に移築。
日蓮宗唯一の門跡寺院。
開基は関白豊臣秀次公の生母、瑞龍寺殿日秀尼公で、高野山で割腹、非業の最期を遂げた秀次公の菩提を弔うために文録5年創建。昭和36年に京都から八幡山城跡に移築。
展望をもとめて
西の丸跡から琵琶湖を望む 左奥が比叡山
帰りのロープウェイから
市街地を望む。ヴォーリズ建築らしき建物が目立ちます。
西の湖の右上の低い山が安土城。
たねや 日牟禮乃舍
食事はしてませんが、昔ながらの近江牛専門店 まるたけ近江西川
スペイン風の玄関が印象的「旧八幡郵便局」
当時の図面や写真をもとに復元された入り口(旧八幡郵便局)
内部も公開されています
村岡邸:昭和初期に建てられた木造2階建て、岩瀬医院という病院(洋館部分)とその住居(日本家屋)でした。
ヴォーリズの処女作「アンドリュース記念館」
旧YMCA会館で、ヴォーリズの処女作。1935(昭和10)年に建て替えられ、2007(平成19)年に改修された。
旧YMCA会館で、ヴォーリズの処女作。1935(昭和10)年に建て替えられ、2007(平成19)年に改修された。
日本基督教団 近江八幡教会
16:07 小幡町資料館前より近江八幡駅行のバスに乗ります。
16:36近江八幡 ― 芦屋(乗換) ― 住吉(乗換) ― 六甲アイランド線でフェリー乗り場へ

ゆっくりとお酒を楽しみながら帰路へ向かう・・・・・
今回の旅は、もっとヴォーリズ建築を見たかったのですが時間がありませんでした。
でも、歴史に触れた、いい旅になりました。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)
1880(明治13)年、アメリカ生まれ。24歳で滋賀県立商業学校(現八幡商業高校)の英語教師として来日。その後近江八幡に定住し、建築家として活躍。日本の気候風土や生活に合わせた工夫を施し、実用的かつ豊かなデザインと親しみやすい空間を有した建築を多く生み出した。一方、キリスト教の伝道、社会事業を展開し、近江兄弟社を設立する。1941(昭和16)年、日本国籍を取得し一柳米来留(ひとつやなぎめれる)に改名。1958(昭和33)年に近江八幡市名誉市民第1号に選ばれた。
1880(明治13)年、アメリカ生まれ。24歳で滋賀県立商業学校(現八幡商業高校)の英語教師として来日。その後近江八幡に定住し、建築家として活躍。日本の気候風土や生活に合わせた工夫を施し、実用的かつ豊かなデザインと親しみやすい空間を有した建築を多く生み出した。一方、キリスト教の伝道、社会事業を展開し、近江兄弟社を設立する。1941(昭和16)年、日本国籍を取得し一柳米来留(ひとつやなぎめれる)に改名。1958(昭和33)年に近江八幡市名誉市民第1号に選ばれた。
福岡でもヴォーリズ建築が見れます。
1916年 博多ルーテル教会、 1918年 久留米ルーテル教会、 1941年 福岡中央教会
福岡社家町教会 -- 櫛田神社近く、蕎麦むらたの前にあります
福岡社家町教会は、1913年に、博多メソジスト教会として始まりました。創立から100年以上の歴史の古い教会です。礼拝堂は、ウィリアム・メレル・ヴォ―リスによって設計され1930年に献堂されました。現礼拝堂は、献堂当時のままの姿を保持しています。
ルーテル博多教会 福岡市博多区須崎町
安土城 散策! (格安フェリーの旅) ― 2024-05-17
昨年度11月、近江八幡、安土城を訪ねる計画を立てていましたが雨の為、予定変更して 雨の京都 白川、祇園界隈を散策にしました。
で、リベンジ。 近江八幡、安土城を訪ねる旅を計画しました。
で、リベンジ。 近江八幡、安土城を訪ねる旅を計画しました。
JR石山駅を過ぎてすぐ、車窓より琵琶湖方面を望む
瀬田川にかかる瀬田川共同橋
奥が琵琶湖にかかる近江大橋
瀬田川にかかる瀬田川共同橋
奥が琵琶湖にかかる近江大橋
JR安土駅が巨大な安土城のイラストでラッピングされています。
おなじみ幸若舞?の織田信長銅像
駅前のレンタサイクルを3時間借りました。
久しぶりのチャリでスタート!
平等寺さんの手前を左折、彦根道を北に、活津彦根神社をめざします。
彦根道が右にカーブする地点に鳥居があります。ここからが参道ですかね。
途中、右手に目指す安土城が姿を現します。

マンホール
活津彦根神社
西の湖
西の湖北側から、安土城を望む
安土川にかかる百々橋(どどはし)
信長は大名・小名を問わず銭100文(現在の3,700円くらい)で、御殿の御幸の間を拝観させました。この時も家臣たちは百々橋口から摠見寺へと通されたことが記録に残されている。
安土城跡の入口に建つ「安土城址」の石碑
大正から昭和期のジャーナリストだった徳富蘇峰の筆による文字だそうです
大手道を登る
安土山の麓にある大手門から山頂の天主に向かってまっすぐに伸びる道が大手道です。
安土山の麓にある大手門から山頂の天主に向かってまっすぐに伸びる道が大手道です。
左右には重臣の邸宅が
すぐ右には前田利家邸跡
左には羽柴秀吉邸跡
現在の摠見寺
現在の摠見寺仮本堂のあるところは、徳川家康邸跡地だそうです。
安土城址の大手道には、いくつかの石仏が見受けられる。
これらの石仏は、築城の際に大手道の石材として使われたものらしい。
これらの石仏は、築城の際に大手道の石材として使われたものらしい。
大手道を登り切ったあと、
天主閣方面に向かって右折する。
天主閣方面に向かって右折する。
右 天主、本丸跡
黒門跡へ向かう途中、左側に
織田信澄邸跡、森蘭丸の名で知られる森成利邸跡がある。
安土城中枢部への入り口である 黒金門跡
黒金門を抜けると、二の丸の石垣
石垣の一部として使われたものと思われる仏足石が奥に見える
天主跡西下の二の丸跡、左に上ると 信長公の本廟がある
信長公のお墓である信長本廟
信長公本廟
天主跡西下の伝二の丸跡に信長公の本廟がある。
重臣・羽柴秀吉は天正十一年一月三法師に年賀を表すべく登城し、翌二月、信長公ゆかりの安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂などの遺愛品を埋葬して本廟とした。そして六月二日の一周忌には、織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行なった。
現在でも毎年六月二日には信長忌として、摠見寺(仮本堂)にて法要を行なっている。
天主跡西下の伝二の丸跡に信長公の本廟がある。
重臣・羽柴秀吉は天正十一年一月三法師に年賀を表すべく登城し、翌二月、信長公ゆかりの安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂などの遺愛品を埋葬して本廟とした。そして六月二日の一周忌には、織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行なった。
現在でも毎年六月二日には信長忌として、摠見寺(仮本堂)にて法要を行なっている。
二の丸跡より本丸跡方面を望む
本丸跡
本丸跡を通り、天主跡へ。
安土城天主台跡
天主台より戦後干拓された大中の湖干拓地、琵琶湖方面を望む
織田信忠邸跡の三叉路を右へ折れると摠見寺跡へ向かう。
【三重塔】 国の指定文化財
三重塔(重要文化財)
室町時代の建物で、棟札に享徳三年(1454)建立、天文二十四年(1555)修理との墨書きがある。
天正三年~四年に信長公が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)から移築したものとされている。
室町時代の建物で、棟札に享徳三年(1454)建立、天文二十四年(1555)修理との墨書きがある。
天正三年~四年に信長公が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)から移築したものとされている。
摠見寺跡より西の湖を望む
【二王門】
楼門と、門内に安置されている木造金剛二力士立像はともに国の重要文化財。
楼門と、門内に安置されている木造金剛二力士立像はともに国の重要文化財。
二王門を通ると、百々橋口道だが、管理されて百々橋口には出られない。
道なりに山裾を大手道方面へ戻っていくこと、羽柴秀吉邸跡に出る
チャリでJR線をくぐり 安土城考古博物館、信長の館を目指す
左端の建物が安土城考古博物館。 中央が安土文芸セミナリヨ。
右の建物がスポーツ施設。 信長の館は安土文芸セミナリヨの裏側です。
右の建物がスポーツ施設。 信長の館は安土文芸セミナリヨの裏側です。
安土城天主 信長の館
近江八幡市安土町桑実寺にある展示施設。平成4年(1992)にスペインで開催された「セビリア万国博覧会」の際に出展された安土城天主の原寸大復元を展示している。
信長の館から、農道を抜けて安土駅へ。 駅の地下道を抜けて駅正面へ。
レンタサイクルを返して、JRで近江八幡へ向かいます。
武雄温泉楼門 「楼門干支見学会」―「武雄で朝活」 ― 2023-06-01
国の重要文化財「武雄温泉楼門」では、観光ボランティアガイド付きの干支見学を楽しむことができます。
楼門の天井には、「酉(とり)」、「子(ね)」、「卯(う)」、「午(うま)」の四干支の彫り絵が存在しています。
残りの八干支は、東京駅の天井にレリーフとして存在しており、明治・大正時代を代表する建築家 辰野金吾博士(佐賀県唐津出身)が仕掛けた粋なミステリーと注目を集めています。
朝1時間だけの限定公開となっております。
楼門の天井には、「酉(とり)」、「子(ね)」、「卯(う)」、「午(うま)」の四干支の彫り絵が存在しています。
残りの八干支は、東京駅の天井にレリーフとして存在しており、明治・大正時代を代表する建築家 辰野金吾博士(佐賀県唐津出身)が仕掛けた粋なミステリーと注目を集めています。
朝1時間だけの限定公開となっております。

天井を見上げての位置関係を作ってみました。
何故、四つの干支が武雄温泉にあるのか?
元々は、武雄に3つの楼門が計画されたそうです。
が、費用面なのか 楼門はひとつしか完成しなかったそうです。
前後して、東京駅の設計に関わり8つの干支が設置されたそうです。

猪目(いのめ)は日本古来から使われている図柄で、皆さんよくご存知の”ハート”によく似ています。 「ハートを探せ!」などといったことを聞きますが、これは猪目(いのめ)です。
令和6年3月31日(日)まで限定公開
※令和5年4月1日(土)より1年間、好評につき、延長になりました。
※毎週火曜日は休みです。( GW期間 5月2日(火)は干支見学会は実施します。 )
◆時 間 午前9時~午前10時まで(受付は9時30分まで) 約20分
◆場 所 武雄温泉楼門(佐賀県武雄市武雄町大字武雄7425番地)
◆見学料 ・一般:大人500円、子ども250円 (元湯入浴券付き)
※令和5年4月1日(土)より1年間、好評につき、延長になりました。
※毎週火曜日は休みです。( GW期間 5月2日(火)は干支見学会は実施します。 )
◆時 間 午前9時~午前10時まで(受付は9時30分まで) 約20分
◆場 所 武雄温泉楼門(佐賀県武雄市武雄町大字武雄7425番地)
◆見学料 ・一般:大人500円、子ども250円 (元湯入浴券付き)
武雄温泉新館
正面は、城の装飾でもある唐破風や千鳥破風が豪華です。
屋根には格式の高い建物にある鴟(しび)があり、
窓は上部が尖頭アーチ状になっている「花頭窓」(かとうまど)と、
日本建築のデザインで埋め尽くされています。
屋根には格式の高い建物にある鴟(しび)があり、
窓は上部が尖頭アーチ状になっている「花頭窓」(かとうまど)と、
日本建築のデザインで埋め尽くされています。
壁一面には、陶磁器の産地有田で作られた当時最先端のタイルが・・・・
天井面には、不等辺八角形の湯気抜き塔。
入場料が高く設定されたこちらの浴室はよりゴージャスに
スペイン風の鮮やかな色どりが美しいマジョリカタイル
当時高級品だった装飾タイルで贅沢に飾ってあります
当時高級品だった装飾タイルで贅沢に飾ってあります
古今東西のいろんなデザインを詰め込んで夢のような温泉を演出したのです
「あぁ 極楽 極楽!」と声が聞こえてきそうです。
「あぁ 極楽 極楽!」と声が聞こえてきそうです。
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