三重津海軍所跡の歴史館 - 佐賀市川副町大字早津江津 ― 2022-10-06
「写真展 オードリー・ヘプバーン」九州芸文館を見たあと、以前から気になっていた「三重津海軍所跡の歴史館」に立ち寄りました。
筑後船小屋から柳川・大川を通り佐賀県に入りました。
県境の筑後川に掛かる「筑後川昇開橋」でおもわず写真を・・・・
筑後船小屋から柳川・大川を通り佐賀県に入りました。
県境の筑後川に掛かる「筑後川昇開橋」でおもわず写真を・・・・
「筑後川昇開橋」からすぐです。
三重津海軍所
佐賀藩が1858年(安政5年)に設立した蒸気船等の船の修理・造船施設です。
1858年(安政5年)に佐賀藩(鍋島家)が以前からあった「御船屋」を拡張して設置した海軍の伝習機関である。
「稽古場地区」は銃等を用いた調練施設、「修覆場地区」は、洋式船の金属部品製作加工を行った「製作場」とドライドックのあった「御修覆場」から構成される。
佐賀藩が1858年(安政5年)に設立した蒸気船等の船の修理・造船施設です。
1858年(安政5年)に佐賀藩(鍋島家)が以前からあった「御船屋」を拡張して設置した海軍の伝習機関である。
「稽古場地区」は銃等を用いた調練施設、「修覆場地区」は、洋式船の金属部品製作加工を行った「製作場」とドライドックのあった「御修覆場」から構成される。
三重津海軍所跡展示室の、ドライドックを開設する大型スクリーン映像
壁面の白い部分が大型スクリーン
4台の映写機器から壮大な映像が映し出されます
上映は5分ほど、1時間に2回のスケジュールです。
有明海の干満差を利用したことがよくわかります。
現存する国内最古のドライドック
"乾ドック(かんドック、英: dry dockドライドック)とは、船体の検査や修理などのために水を抜くことができるドックのこと。"
"乾ドック(かんドック、英: dry dockドライドック)とは、船体の検査や修理などのために水を抜くことができるドックのこと。"
当時の蒸気船の馬力では、有明海の満ち引きによる海流に苦戦したそうです。
佐賀藩の技術と、有明海の干満差がもたらした技の結集ではないでしょうか。
佐賀藩の技術と、有明海の干満差がもたらした技の結集ではないでしょうか。
時の架橋から歴史公園へ
白いラインがドッグの位置を示している
ドライドックの木組護岸遺構
軍艦島(端島) クルーズ 上陸再開!! ― 2020-03-09
”2019年9月23日より台風17号による損壊の為、供用停止となっておりました端島見学施設ですが、長崎市による復旧工事の完了検査が終了したため、2月21日より供用再開となりました。”
2020年2月21日より、上陸再開!!の記事を見て早速訪れました。
昨年来た台風17号は、酷くて色んな場所を壊しました。半年間上陸できないのは流石にビックリです。
2020年2月21日より、上陸再開!!の記事を見て早速訪れました。
昨年来た台風17号は、酷くて色んな場所を壊しました。半年間上陸できないのは流石にビックリです。
天気予報では、「晴れのちくもり 夕方雨」の予報。
なんとか行けるだろうと、3月9日予約を入れました。
午前便で、10:10集合、10:30出航~13:00頃まで・・
常盤2号桟橋から出発です。
軍艦島到着までは、客席よりガラス越しの撮影になります。
なんとか行けるだろうと、3月9日予約を入れました。
午前便で、10:10集合、10:30出航~13:00頃まで・・
常盤2号桟橋から出発です。
軍艦島到着までは、客席よりガラス越しの撮影になります。
三菱重工長崎造船所
造船の街、長崎の象徴「ジャイアント・カンチレバークレーン」
造船の街、長崎の象徴「ジャイアント・カンチレバークレーン」
三菱長崎造船所 第三船渠 No.3 DOCK
4年に亘り崖を削り、海を埋め立て、1905年に完成させた東洋最大のドックです。
100年以上を経た今も現役ドックで、底や壁面の石垣も当時のものらしいです。
100年以上を経た今も現役ドックで、底や壁面の石垣も当時のものらしいです。
女神大橋 「斜張橋」(しゃちょうきょう)別名「ヴィーナスウィング」。
高鉾島 異国からの貿易船は、この島を長崎港に入る際の目印としていたそうです。
神の島教会と岬のマリア像
船からではないと見れない景色です。
ここから、船はスピードアップ!
伊王島を結ぶ、伊王島大橋を通過。
長崎港から南西へ、およそ14.5㎞の沖合に浮かぶ高島。
高島炭坑(北渓井坑跡)が世界遺産に登録された。
高島炭坑(北渓井坑跡)が世界遺産に登録された。
軍艦島のお隣の島「中ノ島」
ここから、軍艦島周遊クルージング。 デッキからの撮影ができます。
ここから、軍艦島周遊クルージング。 デッキからの撮影ができます。
いよいよ軍艦島周遊クルージング
東側のドルフィン桟橋方面より、反時計回りに西側へと周遊します。
東側のドルフィン桟橋方面より、反時計回りに西側へと周遊します。
東側は、高波を防ぐ防波堤が・・、社宅も防波堤の役割をしたそうです。
軍艦「土佐」に似た軍艦島、北西より望む。
西南より望む。
いよいよドルフィン桟橋より上陸です。
見学通路のトンネルを抜け、見学広場に向かいます。
第2見学広場から
総合事務所・・・鉱山の中枢であったレンガ造りの建物。
この島の司令塔的存在で軍事機密があり、子供達は入れなかったそうです。
この島の司令塔的存在で軍事機密があり、子供達は入れなかったそうです。
第二竪坑坑口桟橋跡
主力坑であった第二竪坑。鉱山施設は現在ほとんど崩壊していますが、かろうじて第二竪坑へ行くために設けられた桟橋への昇降階段部分が残っています。写真左の穴は、風呂があったそうです。
主力坑であった第二竪坑。鉱山施設は現在ほとんど崩壊していますが、かろうじて第二竪坑へ行くために設けられた桟橋への昇降階段部分が残っています。写真左の穴は、風呂があったそうです。
岸壁はコンクリートの補強で覆われているため、岸壁の表面のコンクリートが崩落した部分からのみ、世界遺産である石組を見ることができます。
第3見学広場
30号棟・31号棟アパート
30号棟アパートは1916(大正5)年に建設され、当時の日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造の高層アパートで、グラバーハウスと呼ばれているそうで、建築学会上大変貴重な建物です。が、保存対象ではなく倒壊の危険があるそうで、傾斜を検知するGPSが上の四隅に設置されているそうです。
30号棟アパートは1916(大正5)年に建設され、当時の日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造の高層アパートで、グラバーハウスと呼ばれているそうで、建築学会上大変貴重な建物です。が、保存対象ではなく倒壊の危険があるそうで、傾斜を検知するGPSが上の四隅に設置されているそうです。
プールの跡。
岸壁・・明治時代に建造された、「天川工法」と呼ばれる伝統的な石組で組まれた護岸。
コンクリート補強されているのがわかる。
貯炭ベルトコンベアー
四角い枠がドミノのように立ち並んでいますが、この上にベルトコンベアーが乗っていました。
四角い枠がドミノのように立ち並んでいますが、この上にベルトコンベアーが乗っていました。
11:25頃上陸~12:05頃 ドルフィン桟橋出航。 40分ほどの上陸でした。
三菱重工香焼工場(こうやぎこうじょう)、通称100万トンドック
船の修理工場「小菅修船所」
日本最古の蒸気機関を動力とする曳揚げ装置を整備した洋式スリップ・ドッグが小菅修船場です。
船をボイラー型蒸気機関の力で曳き揚げるために設置されたレール上の船を載せる台(船架、現存しない)がそろばん状に見えたため、通称「ソロバンドック」の名で親しまれています。
船をボイラー型蒸気機関の力で曳き揚げるために設置されたレール上の船を載せる台(船架、現存しない)がそろばん状に見えたため、通称「ソロバンドック」の名で親しまれています。
「迎賓館」を港側より望む。
松が枝ターミナルにはクルーズ船がよく停泊しています。
駐車場は、森の駐車場(南)
昼間(午前8時から午後6時まで) 30分につき 2時間まで 50円 2時間越 150円
650円でした。
昼間(午前8時から午後6時まで) 30分につき 2時間まで 50円 2時間越 150円
650円でした。
オランダ坂を散策して帰りました。
2019年3月に復活した、門司港駅に行ってきました。 ― 2019-10-31
門司港駅
100年の時を超え大正ロマンあふれる門司港駅が復活!
駅としては日本で初めて国の重要文化財に指定された門司港駅。
2013年から、駅舎を解体・修理・補強・組み立て工事が行われました。
約6年の歳月を経て大正時代の姿が甦りました。
※ 現役の駅舎で国の重要文化財に指定されているのは、現在、門司港駅と東京駅の2つだけです。
駅コンコース(券売機など)
駅コンコース(カフェ側)
コンコース入って左、現在の切符売り場、案内所です。
コンコース入って右、スタバが入っています。
スタバの奥に、2階に上がるエレベーターがあります。
コンコースより改札口を望む。
改札前、待合室。
昭和につくられ、取り外されたひさしの鉄骨。駅舎北側に保存・展示されています。
レストラン入口より2階へ。
食堂入口。
旧貴賓室
「みかど食堂」の団体客用個室として使われています。
屋根裏が覗ける小窓、カフェの上くらいですかね。
こんなところまで、復原!!
創建時(大正時代)の姿が忠実に復原されています。
「復原」とは、「現存する建物について、創建以後に手を加えられた部分を原型に復す」の意、
「復原」とは、「現存する建物について、創建以後に手を加えられた部分を原型に復す」の意、
だそうです。
門司港駅(旧門司駅) 門司区西海岸1-5-31
明治24(1891)年に九州鉄道の起点駅として門司駅が開業。
門司港地区の発展に伴って、大正3(1914)年に二代目の門司駅として現在の場所に移転新築。
昭和17(1942)年に門司港駅と改称して現在に至る。
令和元年(2019)3月10日、大正ロマンあふれる門司港駅が復活!
明治24(1891)年に九州鉄道の起点駅として門司駅が開業。
門司港地区の発展に伴って、大正3(1914)年に二代目の門司駅として現在の場所に移転新築。
昭和17(1942)年に門司港駅と改称して現在に至る。
令和元年(2019)3月10日、大正ロマンあふれる門司港駅が復活!
琵琶湖疏水を歩きました③ 第3トンネル西口・蹴上インクライン ~ 南禅寺水路閣 ― 2019-03-29
琵琶湖疏水を歩きました③ 第3トンネル西口・蹴上インクライン ~ 南禅寺水路閣
「第3トンネル東口」で疎水沿いを歩くウォーキングコースは、実質的に終わりです。
「蹴上インクライン」までは大きく迂回、三条通(府道143号線)沿いを歩くことになります。
ここでドロップアウト、府道143号の日ノ岡交差点から京都市営地下鉄(東西線)の「御陵駅(みささぎえき)」まで向かい、蹴上まで地下鉄利用をしました。
地下鉄東西線蹴上駅 1番出口 ・・インクライン方面。 2番出口 ・・蹴上浄水場方面 です。
出口を間違うと、蹴上の信号から浄水場入口の南の信号までの500m横断歩道がありません。
出口を間違うと、蹴上の信号から浄水場入口の南の信号までの500m横断歩道がありません。
いったん南へ、東山ドライブウェイ、将軍塚分岐の信号あたりからスタートしました。

京都市蹴上浄水場のレンガ造の建物
三条通(府道143号線)沿いの、日向(ひむかい)大神宮の「一の鳥居」からのぼります。
(三条通沿いちょっと南より、斜めに上る坂があり、旧九条山浄水場を通ってインクラインへ向かうことができます。)
琵琶湖疎水に架かる大神宮橋
第1疏水第3トンネル西口
右手に 旧九条山浄水場のポンプ室が見えます。 びわ湖疏水船の上下船場になっています。
柵があるので近づくことはできません、疏水船の乗客のみ中に入れます。
御所水道ポンプ室の写真は柵と塀で囲まれてこれくらいしか見えません。
第1疏水第3トンネル西口
旧九条山浄水場ポンプ室(明治45年(1912)竣工) 、 西側の柵越しに撮影。
御所水道は大日山に設けた貯水池から京都御所まで、約4キロに専用鉄管を引いたもので、琵琶湖疏水のポンプ室から池に疏水の水をくみ上げて給水したそうです。
貯水池の満水時の水面と御所付近の標高差は約60メートルで、水圧により御所内の約70の消火栓から自動的に放水される仕組みだったそうです。
貯水池の満水時の水面と御所付近の標高差は約60メートルで、水圧により御所内の約70の消火栓から自動的に放水される仕組みだったそうです。
琵琶湖第2疏水合流点
蹴上インクライン
京都〜大津の舟の輸送を目的として作られた「インクライン」。台車と木造船。
「本願寺水道」は、東本願寺が火災になったときに、消火活動に使うための防火用水の水源として、蹴上からわざわざ引っ張られたものです。現在は老朽化していて、残念ながら水は止められているそうです。総延長で4.6㎞だそうです。
第2疏水の合流洗堰
冬季の第一疏水メンテナンス期間中、激しい水勢で流れ落ちる様子が見られるそうです。
蹴上発電所への放水のための導水管。
公園裏手の小道から、琵琶湖疏水の分流に沿って南禅寺水路閣に向かいます。
蹴上疏水公園 田辺朔郎博士の像
蹴上疏水公園には、疏水工事の総括責任者・田辺朔郎博士の像が立っています。
蹴上疏水公園には、疏水工事の総括責任者・田辺朔郎博士の像が立っています。
インクラインを往来した台車と三十石船
「まんぽ」とはトンネルのことらしいです。鉄道の下をくぐるトンネルを指すそうです。
強度を高めるために、レンガがらせん状に積まれ、ねじれている様子から「ねじりまんぽ」と呼ばれます。
南禅寺 山門
南禅寺 法堂
南禅寺水路閣 アーチ型の橋脚が特徴的な風格のある姿です。
明治21年に作られました。
明治21年に作られました。
第5トンネル~疏水分線へ
琵琶湖疏水記念館
ゴール!!南禅寺舟溜り
パンフレット 琵琶湖疏水 - 京都市上下水道局水道部疏水事務所発行のpdf
https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/cmsfiles/contents/0000108/108414/pamphletbiwakososui[1].pdf
https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/cmsfiles/contents/0000108/108414/pamphletbiwakososui[1].pdf
琵琶湖疏水を歩きました② 藤尾・第1トンネル西口~第3トンネル東口(日ノ岡) ― 2019-03-29
琵琶湖疏水を歩きました② 藤尾・第1トンネル西口~第3トンネル東口(日ノ岡)
琵琶湖の水を京都へ引くために明治時代に建設された「琵琶湖疏水」を散策です。
疏水沿いには、約2,000本の桜が植えられているので、桜並木を期待しましたがちょっと早かったようです。
疏水沿いには、約2,000本の桜が植えられているので、桜並木を期待しましたがちょっと早かったようです。
コース唯一のコンビニ「ローソン藤尾小金塚店」から進みます。
道標がある分岐で横断歩道を渡り、コース唯一のコンビニ「ローソン藤尾小金塚店」を下ります。
第一疏水第1トンネル西口
「山縣有朋」筆の「廓其有容(かくとしてそれいるることあり)」という文字が刻まれています。
「廓其有容」は、「疏水をたたえる大地は、奥深くひろびろとしている」という意味だそうです。
(「京都市水道局の案内板」より)
東山自然緑地(山科疏水)
藤尾・四ノ宮から日ノ岡(JR御陵駅近く)にかけて約4kmにわたって疏水沿いに整備された遊歩道で、市民の憩いの場として親しまれています。
藤尾・四ノ宮から日ノ岡(JR御陵駅近く)にかけて約4kmにわたって疏水沿いに整備された遊歩道で、市民の憩いの場として親しまれています。
緊急遮断ゲート
大地震による堤防決壊時に水流を自動停止する緊急遮断ゲートが平成11(1999)年に設置されました。
大地震による堤防決壊時に水流を自動停止する緊急遮断ゲートが平成11(1999)年に設置されました。
緊急遮断ゲートから少し進んだ所にかかっている藤尾橋(1号橋) 明治20年落成
疏水工事で最初にできた橋。赤レンガと石造りの土台は当時のまま今も現役です。
疏水工事で最初にできた橋。赤レンガと石造りの土台は当時のまま今も現役です。
測水橋 (明治末期建設)
測水橋は水量や水質を測定するための横断橋である。現在は建物も無人であり、わずかにコンクリート製蓋が残っているだけらしい。
洛東用水取水口
「一燈園」前にかかる柳山橋(第2号橋) 明治22年落成
四ノ宮舟溜り
白線引きされた四ノ宮舟溜、舟溜高低差を明確にし、安全走行ができるようにするものらしい。
諸羽トンネル東口 ちょうど、びわ湖疏水船がきました。
「諸羽トンネル」は、昭和45年(1970年)に完成した新しいトンネルです。長さ520m
国鉄東海道線の複々線化と湖西線の新設工事によって、疏水流路を変更して一部がトンネル化されました。このため、四ノ宮船溜まり下流から諸羽船溜まりの一部までの区間が埋め立てられ、旧水路は「東山自然緑地」の遊歩道として整備されました
四ノ宮船溜まり下流から諸羽船溜まりの一部までの区間が埋め立てられ、旧水路は「東山自然緑地」の遊歩道として整備されました
第2疏水トンネル試作物
疏水公園 (旧水路を埋めて出来た「東山自然緑地」の遊歩道)
JR(琵琶湖線・湖西線)、京阪電車(京津線)山科駅方面が見下ろせます。
疏水に戻ってきました
諸羽トンネル西口
昭和45年(1970年)に完成した諸羽トンネルには、東口・西口ともに扁額は付けられていません。
山科の諸羽(もろは)トンネルを抜けて見えてきたのは安朱(あんしゅ)橋。(第4号橋 )
「安朱橋」の次にかかる5号橋 (安朱西橋)
洛東高校の入口にかかる洛東橋
安祥寺川
安祥寺橋
安祥寺橋の先で水路が少し広くなっている所は、安祥寺船溜りの跡です。
妙応寺橋(7号橋)
猪が山から降りきてこの橋を渡るとのことで、橋には柵が取り付けてあります。
天智天皇陵への分岐
分岐から「天智天皇陵」の山科陵(やましなのみささぎ)までは、徒歩8分と表示されています。
天智天皇陵に沿って進み明治中期の建造とされる8号橋
あちこちに切り株があり気になりました。昨年の台風で倒木がひどかったようです。
「天智天皇陵への分岐」から少し進むと、朱塗りの「正嫡橋」が見えてきます。
疏水北にある本圀寺を結ぶ本圀寺正嫡橋(昭和58年建造)加藤清正のゆかりの寺である 「本圀寺(ほんこくじ)」
加藤清正の菩提寺であり、境内には清正が寄進した勝運・開運にあやかれる「開運門(現在の門は2代目)」や、廟所の「清正宮」などがあります。
加藤清正の菩提寺であり、境内には清正が寄進した勝運・開運にあやかれる「開運門(現在の門は2代目)」や、廟所の「清正宮」などがあります。
大正13年(1924)建造との三角橋である大岩橋(第9号橋)
カタカナの表札です。
山ノ上橋(第10号橋)、
明治22年(1899)9月建造のこの橋は、封山橋といわれていたそうです。また、地名から黒岩橋とも、その形から太鼓橋とも称されたそうですが、この橋は日本最初のアーチ型鉄筋コンクリート橋とのこと。(?) 第11号橋が日本最古のはずですが??
明治22年(1899)9月建造のこの橋は、封山橋といわれていたそうです。また、地名から黒岩橋とも、その形から太鼓橋とも称されたそうですが、この橋は日本最初のアーチ型鉄筋コンクリート橋とのこと。(?) 第11号橋が日本最古のはずですが??
倒木の写真でも疑問を感じました。
「倒木発生のため通行止め」の説明用の地図です。
左上に、「日本最古のコンクリート橋」とあります。最初は地図の間違いかと思いました。
「日本最初の鉄筋コンクリート橋(第11号橋)」は、当時の最新工法だった鉄筋コンクリートを試したもので、その経験をもとに本格的な鉄筋コンクリート橋である「黒岩橋」を建設したそうです。
いろいろ調べて納得がいきました。
いろいろ調べて納得がいきました。
第2トンネル東口
第2トンネルの長さは124mで、第1トンネル2,436m、諸羽トンネル540m、第3トンネル850mと比べると随分短いトンネルです。扁額には、内務大臣など明治政府の要職を歴任した「井上馨」筆の「仁似山悦智為水歓歡(じんはやまをもってよろこびちはみずをもってなるをよろこぶ)」という文字が刻まれています。「仁似山悦智為水歓歡」は、「仁者は知識を尊び、知者は水の流れをみて心の糧とする」という意味だそうです。(「京都市水道局の案内板」より)
トンネル右下のプレートです。
「第2トンネル東口」から「第2トンネル西口」へ向かうには、住宅街を抜けます。
細い路地を抜けると疏水に戻ります。
第2トンネル西口
レンガ造りの美しいデザインの「第2トンネル西口」洞門の扁額には、「西郷従道(さいごうじゅうどう)」筆の「隨山到水源(やまにしたがいすいげんにいたる)」という文字が刻まれています。
対岸の施設は、京都市上下水道局の新山科浄水場日ノ岡取水池です。
第3トンネル東口 2042、2043、2044
「日本最初の鉄筋コンクリート橋」からは、「第3トンネル東口」が見えます。「第3トンネル東口」洞門の扁額には、内閣総理大臣を2度務めた「松方正義」筆の「過雨看松色(かうしょうしょくをみる)」という文字が刻まれています。「過雨看松色」は、「時雨が過ぎるといちだんと鮮やかな松の緑をみることができる」という意味だそうです。(京都市水道局ホームページより)
「日本最初の鉄筋コンクリート橋」からは、「第3トンネル東口」が見えます。「第3トンネル東口」洞門の扁額には、内閣総理大臣を2度務めた「松方正義」筆の「過雨看松色(かうしょうしょくをみる)」という文字が刻まれています。「過雨看松色」は、「時雨が過ぎるといちだんと鮮やかな松の緑をみることができる」という意味だそうです。(京都市水道局ホームページより)
日本最初の鉄筋コンクリート橋
「第2トンネル西口」からすぐで「日本最初の鉄筋コンクリート橋(第11号橋)」です。
明治36年(1903年)に造られた橋長7.2m、幅員1.5mの小さな鉄筋コンクリート橋で、国の史跡に指定されています。橋のそばには「本邦最初鐵筋混凝土(コンクリート)橋」と刻まれた石碑が建っています。
鉄柵の中に橋が架かっています。 鉄柵が、近すぎ・大きすぎではないでしょうか??
100年以上前に作られたRC橋の路面。
この橋の鉄筋は専用の材料がなかったため、疏水工事で使ったトロッコのレールが代用されているそうです。
この橋の鉄筋は専用の材料がなかったため、疏水工事で使ったトロッコのレールが代用されているそうです。
「第3トンネル東口」で疎水沿いを歩くウォーキングコースは終わりです。
府道143号の日ノ岡交差点から、京都市営地下鉄(東西線)の「御陵駅(みささぎえき)」へ
地下鉄で蹴上まで向かいました。
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