大保原合戦の道ハイキング - 福岡県小郡市 ― 2024-04-20
数年前に、大杣公園祭-良成親王の御陵墓(八女市矢部村)に伺いました。
その時、懐良親王について調べていると、小郡市で「大保原合戦の道ハイキング」行われているのを知りましたが、コロナ禍で開催が見送られていました。
今年の「合戦の道ハイキング」案内を見て参加してきました。
その時、懐良親王について調べていると、小郡市で「大保原合戦の道ハイキング」行われているのを知りましたが、コロナ禍で開催が見送られていました。
今年の「合戦の道ハイキング」案内を見て参加してきました。
15人ほどの参加者で、2班に分けてボランティアの方々が案内してくれました。

受付のあと、簡単な準備運動のストレッチがありスタートです。
一番目は、集合場所の大原小学校のグランドの横、
善風塚跡
善風塚跡
「大原」と 「大保原」
この合戦の資料は少なくて、
中世戦記「太平記」に、「少弐如何思ケン不戦、三十町引退キ大原ニ陣ヲ取ル」の記載があり、この戦いを「大原合戦」と呼んでいるそうです。
一方、現存する当時の史料を見る限り、「大原」と記したものはなく、参加した武士たちの軍忠状に「大保原」の記載があり、極めて史料的価値が高いらしく、現在では「大保原合戦」と呼ばれることが多くなってそうです。
ボランティアの方が示してくれた、木屋弾正左衛門尉行実の軍忠状
この合戦が、数ページにわたり展開されています との紹介がありました
南北朝のお勉強に読んでみたいと思います
大原古戦場の碑に向かう途中、
小郡官衙遺跡(おごおりかんがいせき)にも立ち寄り説明をいただきました。
7世紀末につくられた筑後国御原郡の役所の跡です。
小郡官衙遺跡は、古代の役所の典型的な構造を知るうえで高い価値があるとして、国指定史跡になっています。
小郡官衙遺跡は、古代の役所の典型的な構造を知るうえで高い価値があるとして、国指定史跡になっています。
大原古戦場の碑
中央の石碑は明治44年に建てられたもの。裏面に当時を反映した碑文が刻まれているとのことで、ボランティアガイのの方から説明がありました。
左の碑は、大保原合戦の650年祭で建てられた碑。右は、600年祭で建てられた碑。
ガイドさんの手作り資料で詳しく説明していただきます。
小郡市大崎 あたりから、耳納連山を望む
曇り空でわかりにくいですが、連山右端が高良山です。
福童原古戦場碑
大中臣神社・福童(ふくどう)の将軍藤
激しい合戦で深手を負った南朝方の懐良親王は、神社に傷の回復を祈願し、全快した後に感謝を込めて奉納したのがこの藤といわれています。幹は1本で、枝の広がりは500㎡にも及びます。
大中臣神社の楼門
現在の楼門は江戸時代後期の1835年に建てられ、平成に入った後に修理が行われました。
江戸時代前期の1670年に書かれた書物には、当時は大きさ9尺2間、約6.3メートルの茅葺(かやぶ)きの楼門があったと書かれています。現在は、屋根瓦です。
大中臣神社の祭神の一柱が住吉大明神。
近くには、宝満川があり、ここには川湊があって栄えていたからではと・・

西鉄端間駅より、登り2駅、大保駅まで乗車、大原小学校の駐車場までガイドの方と一緒でした
たいへん有意義でした。
曇り空で、雨になりそうでしたが何とかお昼まで持ちました。
ボランティアガイドの方は詳しく丁寧に説明していただきうれしかったです参加者に配られた資料、660周年記念の16ページの冊子です。

大原合戦の経過を示すページをスキャンしました。
↓ 以前訪れた、大杣公園祭-良成親王の御陵墓のページです ↓
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