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武雄温泉へ2019-06-24

国指定重要文化財 武雄温泉楼門・新館

孫の1歳の祝い、「もち踏み」(一升餅)・「選び取り」
のために長崎へ向かいました。夕方の食事ということで、途中 武雄温泉を訪れました。


国指定重要文化財 楼門    

武雄温泉の歴史は古く、開湯は何と約1300年前。明治28(1895)年頃までは柄崎(つかさき)温泉と呼ばれていました。
当時、神功(じんぐう)皇后が三韓征伐の凱旋の途で立ち寄り、手に持っていた太刀の柄(つか)の先(さき)で岩を割ったところ湯が湧出したのが始まりとも、鷺が温泉で傷を癒しているのを発見したのが始まりとも言われています。

武雄温泉のシンボルと言えば、朱塗りの楼門と新館です。



開湯以来1300年経つ武雄温泉、この温泉には日本銀行や東京駅の設計を行った辰野金吾設計の楼門があり国の重要文化財に指定されています。釘を一本も使用していないそうです。

左の櫓が、第一源泉です








 1300年の歴史を持つ武雄温泉の入口に建つ「楼門」は、「新館」とともに東京駅を設計した辰野金吾博士による木造建築で国重要文化財に指定されています。楼門2階に4つの干支が見つかり、東京駅の8つの干支と合せると十二支が揃うことで話題になりました。

楼門の2階へつながる階段には鍵がかかっています。
楼門の内部を見学ができるのは、朝、9:00~10:00の一時間のみです。
一人でも可だそうで、入浴券もついています。ぜひ訪れてみたいものです。





「元湯」と「蓬莱湯」のある本館の入口
「武雄温泉楼門」をくぐると、一番手前には2つの大衆浴場がある「武雄温泉本館」



一番奥には、昔の浴場の跡がそのまま残る「武雄温泉新館」があり、自由に鑑賞できます













長崎街道を知る案内板の数々・・・
        本陣   案内板

長崎街道(柄崎宿周辺)みて歩き  案内板

鍋島藩の行政を司る代官所跡   案内板

脇本陣・宮本武蔵の井戸   案内板
脇本陣は楼門の前の平戸屋(現湯元荘東洋館)に置かれました。宮本武蔵は巌流島の決闘の後、平戸屋に滞在したと言われていて、ロビーの一角に武蔵が使った井戸が残されています。


長崎街道佐賀路
筑前原田(はるだ)宿を過ぎた田代宿から嬉野宿までの13宿が佐賀路です。
小田~鳴瀬~塩田~嬉野と通っていた街道は、塩田川の度重なる氾濫で、宝永2年(1705)からは小田~北方~塚崎(武雄)~嬉野の新道に切り替えられました。

かつて、この街道は幕府役人、参勤交代の大名行列、オランダ使節、商人などでにぎわいました。象やラクダ、クジャクなどの珍しい動物が通ったときには沿道は大変な騒ぎだったということです。

明治14年(1881)に国道34号が新設されると長崎街道は廃止されました。

                      (国土交通省 九州地方整備局 佐賀国道事務所HPより)
                      「柄崎宿」 (塚崎宿)、表記が両方あります。


塚崎宿(武雄市)には温屋を併設した本陣のほかに、長崎屋、三都屋といった旅籠屋がありました。
本陣は武雄温泉の朱塗りの楼門を入ったところにあって、大名や家老クラスの武士が宿泊していました。江戸中期に領主の専用風呂として作られた殿様風呂と呼ばれる浴場が今も残っています。殿様風呂の浴槽は江戸時代は木作りでしたが、明治期に白と黒の大理石の市松模様にリフォームされています。

武雄温泉を訪れた長崎オランダ商館の医師シーボルトは、「使節と我々は肥前藩主の浴場で入浴する許可を得た。木製の浴槽で、湯元から湯が運ばれた。その清潔さは驚くほどで、もともと水晶のようにすき通った湯を、前もって馬の尾で作った細かいふるいで漉すのである」と書き残しています。
脇本陣は楼門の前の平戸屋(現湯元荘東洋館)に置かれました。宮本武蔵は巌流島の決闘の後、平戸屋に滞在したと言われていて、ロビーの一角に武蔵が使った井戸が残されています。武蔵はここで「五輪書」の構想を練ったということです。脇本陣の向かいには代官所がありました。
                     (国土交通省 九州地方整備局 佐賀国道事務所HPより)

次回は、ゆっくり街道巡りをしたいと思います。



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