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原城跡・島原の乱 - 長崎県南島原市2018-03-11

原城跡・島原の乱

南串山町の棚畑(じゃがいも畑)と加津佐町 - 口之津町に立ち寄り、
島原の乱でキリシタン農民が立てこもった事で有名な原城跡を訪れました。





原城 三の丸
板倉重昌の碑
幕府軍は苦戦し城がなかなか落とせない。江戸から板倉重昌を派遣するが数度の総攻撃は全て失敗に終わる。また松倉自身戦死してしまう。板倉重昌の碑が、三の丸にあります。














本丸跡に到着です。 本丸正門跡から巡ります。

本丸正門跡(原城本丸大手門跡)



埋門跡











本丸門跡






天守台跡








かなり近い距離に天草が見えます。

ご存知、天草四郎像です。




















原城跡
原城は1598年から1604年にかけて有馬氏によって築かれた城で、島原・天草一揆の舞台だったところです。
キリシタン農民が立てこもり、3ヶ月にも渡って幕府軍と戦った。
幕府軍は苦戦し城がなかなか落とせない。江戸から板倉重昌を派遣するが数度の総攻撃は全て失敗に終わる。
知恵伊豆と言う異名を持った松平信綱が援軍に駆けつけ、長崎のオランダ軍とともに総攻撃。ついに原城は落城した。



島原の乱後の農民移住について
島原の乱では天草や島原半島の南部・西部は殆ど壊滅状態。
島原藩主として就任した高力摂津守は農民の居ない領地に困り果て
幕府に対し、西国の大名・九州の大名に石高に応じた百姓を天草や
島原移住させる様布告する様に依頼した。
乱後の農民の移住は小豆島からが一番多くよく知られてるが、
是に応じ長州毛利や薩摩の島津が領民の移住に応じた。