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八代市鏡町 -- 肥後の名石工が作った石橋「鑑内橋」2015-08-23

鑑内橋            
所在地:    熊本県八代市鏡町鏡
1830年頃肥後の名石工、岩永三五郎がつくったといわれ、現在町内に残っている唯一のめがね橋です。
 橋の長さは7.2メートル、径間5.5メートル、幅2.8メートルです。明治10年の西南の役に日奈久に上陸して北上する官軍の斥候と熊本城を包囲していた薩軍から派遣され、南下中の斥候とが、初めて出会ったところで、その情報によって薩軍は氷川の線に陣地をかまえ両軍が戦いを交えました。(八代市 観光振興課)







眼鏡橋の奥に、史跡案内がありました。
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史跡 御高札場跡
ここは旧藩時代、津口に近く、八代~松橋の下往還の要所であった。
庶民に法令を徹底させるため、法度や掟書を書いた立札や犯罪人の罪状をかかげた御高札場の跡である。
宮原・坂本などは二枚立であったが、ここは八代町徳淵と共に十一枚立であった。
また、そばの眼鏡橋は、この道と同様下往還の昔を忍ばせている。
                                                                      昭和四六年一月 鏡町教育委員会
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           眼鏡橋から200-300m位下流に、鏡町発展に寄与した人物の碑があります。
犬塚安太の碑
鹿子木親子が干拓した芝口村と文政村によって米の収穫が飛躍的に増大下が一方、海が遠くなり鏡町の商業、漁業に大打撃を与えた。
惣庄屋となった犬塚安太は藩の許しを受け3Kmの長さの「鏡入り江」を文政13年(1830)に開いた。
入り江は鏡町、内田まで入り漁船の往来、貨物の運輸ができるようになり天草、長崎方面の交易が自由に盛んになった。 鏡町の商業が盛んになったのもこの頃からと思われる。

秋田正雄の碑
安政2年(1855年)生まれ、明治25年野崎尻の石にコケが着いているのを発見、これを秋田正雄に見せたところ海苔と分かり、正雄はこれを養殖すべき研究をし郷土の産業に育てた。大正13年69才で亡くなる。

八代海からかなり入った処です。「鏡入り江」


過去訪問した石橋をまとめています。  INDEX石橋 ↓
                                http://kaz1001.asablo.jp/blog/cat/index/

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