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井樋橋( いびばし) 熊本市富合町2014-10-27

井樋橋
慶長13年(1608年)、加藤清正は緑川の治水かんがい工事を進める一方、守富の荒野地の開墾にも着手し、潤川流域のかんがい用として、南田尻村に石をたたんで井樋橋(長六の石井樋)を造りました。現在も防潮樋門として使用されています。        (満遊くまもとHPより)






                           樋門側。 宇土でみかけた馬門石が使われています。


                           すぐ北側に九州新幹線操車場があります。

川尻の御蔵前船着場跡、御船手渡し跡 - 熊本市南区2014-10-27

川尻 - 熊本市南区
鎌倉時代から緑川や加勢川河口の港町(外港)として栄え、中世には中国との海外貿易も行われていた。加藤清正によって再整備された江戸時代以降は熊本藩の物流拠点として、また「御船手」と呼ばれた藩の水軍基地として、さらに薩摩街道の宿場町として繁栄し、明治初期には西南戦争の舞台のひとつとなった。今でも当時の石造り船着場や藩の米蔵、古い町並みが残っており、2010年8月に船着場と蔵が国の史跡として認可された[1]。また、室町時代末期からの歴史を誇る刃物製造(川尻刃物)や桶の製造、赤酒や焼酎の醸造といった伝統産業は現在も継承されており、市民に親しまれている。(Wikipediaより)

                            古い町並みの中にある「瑞鷹酒造」。
                            瑞鷹酒造は熊本県で最初にできた酒蔵だそうです。
                            また、この酒蔵は近代日本酒に大きな変革を及ぼした
                            「吟醸酒」の故郷でもあるそうです。


対岸から見た石段。左が九州新幹線、右がJR鹿児島本線。
川尻御蔵前船着場跡。加勢川右岸。
旧藩政時代の舟着場の遺構である石段。
150mにおよぶ石段もすごいですが、周りの石垣が数百m続くのは圧巻です。
真ん中は殿様用で石も違うらしい。


県下初の公衆便所跡。


                                                      船着場階段から200mほど下流に

                                                      御船手渡し跡(おふなてわたしあと) 

御船手渡し跡(おふなてわたしあと) 熊本市南区
加勢川の左岸は、富合町杉島地区で、江戸時代は陸の孤島でした。ここは杉島御船手とよばれ、江戸時代には藩船の乗組員や水夫たちが多く住んでおり、船頭町が存在していました。
  この杉島と川尻とのあいだは、上流から中之島渡し(大慈寺渡し)、杉島渡し、御船手渡しの3つの船渡しで結ばれていました。参勤交代のときには、藩主の御座船である波奈之丸(なみなしまる)や、泰宝丸なども入港する熊本藩の海軍基地として全国に名を馳せていました(豊後鶴崎と肥後川尻は熊本藩御船手の所在地としても名高い)。
 また、近くに米蔵(御蔵)があったため、蔵物の監視の役目も果たしていました。御船手には早船を含めて150艘近くの船があり、江湖(川の入り江)にはたくさんの軍船もみられました。藩船の乗組員たちが外城町への買い物に利用していたのがこの御船手渡しでしたが、明治以降しだいに衰退していきました。
 昭和になり、ほかの渡しが廃止されていくなか、外城は買い物で行き交う人びとで賑わっていましたが、この御船手渡しも昭和36年(1961年)に廃止されました。
 当時の石畳は現在もその姿をとどめており、石畳から対岸を望むことができます。
(熊本県HP > 地域発 ふるさとの自然と文化 > より)